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上福岡市(かみふくおかし)は埼玉県南部に位置していた市。東京都市圏#埼玉県(東京通勤圏)。川越市等に隣接し、川越市の商圏に属する。市内には二つの団地があり、高度成長期以降人口が激増し、一時期は日本で一番人口密度の高い市であった。市制施行前の名称は埼玉県入間郡福岡町であり、市名は福岡県福岡市との重複を避けるために上福岡駅の駅名から上福岡市とした。上福岡という名称から、埼玉県ではなく福岡県にあると勘違いされることがある。 市域を流れる新河岸川は荒川の支流であり、江戸時代から昭和初期にかけては川越と江戸(東京)を結ぶ舟運が通っており、物流(貨物)の重要交通路であったが、鉄道の敷設により河川交通は廃れた。 == 歴史 == ===縄文 - 室町時代=== 市内最古の石器は、市域の北端の舌状台地に位置する川崎遺跡で2万7千年前の旧石器時代後期のナイフ形石器が発見されている。縄文時代早期末には、川崎遺跡で竪穴住居跡、長宮遺跡で、炉穴と思われる遺構が検出されている。 縄文時代前期の関山期には、上福岡貝塚の集落が営まれた。この遺跡は、火工廠の建設に伴って発見され、山内清男、関野克両博士によって調査されて学史上に知られる。また、長宮遺跡でも同時期の住居跡が確認されている。 やや遅れた黒浜期になると、川崎遺跡で、11m×7mの大形住居跡が営まれたことが確認され、県内で3例目であり、通常は栃木県や北陸などの遺跡で知られるような集会施設ではないかと考えられている。諸磯期になると、市内南西部の現さぎの森小学校の校庭に当たる場所から、鷺森遺跡の16軒にのぼる竪穴住居跡と数百基にのぼる土坑が確認され、土器のほかに耳飾りなどが出土している。 縄文時代中期の前半にあたる勝坂期には、現西小学校の北側で、西遺跡の集落が発掘調査され、縄文時代の竪穴住居跡18軒と多くの土坑、集石遺構が確認されている。西遺跡の集落は同小学校の西側にもひろがっていると推察される。また、縄文時代中期後半の加曾利E期には、市内北部のハケ遺跡で環状集落が営まれ、遺構はないが、縄文時代後期の土偶も確認されている。 縄文時代後期初頭の称名寺期にも川崎遺跡で竪穴住居跡が確認されている。後期半ばから晩期は土器だけの出土事例が見られる。 弥生時代は空白地域であるが、その終末には、市内の南東端にあたる伊佐島遺跡で、弥生時代終末期の環濠集落が確認されている。 古墳時代にはいると、埼玉県の指定史跡になった権現山古墳群が築かれる。新河岸川と滝地区を望む小高い場所に立地する当時の有力者の墓と考えられている。権現山古墳群の営まれる前後には、古墳時代前期の滝遺跡の集落が営まれた。古墳時代後期の集落は、川崎遺跡と滝遺跡で営まれている。 飛鳥時代の集落は、市内中央部の標高8m - 10mの平坦地に、長宮遺跡と松山遺跡の集落が営まれている。松山遺跡の集落は奈良時代をへて平安時代まで点々と住居跡が確認されている。松山遺跡と川崎遺跡、ハケ遺跡、伊佐島遺跡では、掘立柱建物跡が確認され、特に、川崎遺跡に集中している。儀礼に使用された緑釉陶器が集落遺跡から出土した意味でも川崎遺跡が当時重要な集落だったことが考えられる。 中世になると、長宮遺跡で、12世紀に生産された渥美焼や常滑焼の破片の出土が見られるようになる。しかし、建物や区画のための溝は、室町時代以降まで発見されていない。市域の南側、駒林地区では、鎌倉 - 南北朝時代の板碑を伴う集石墓が確認されている。戦国時代には、後北条氏の家臣であった富永善左衛門の館が市域の東端の下福岡地区にあったと考えられているが(城山遺跡)、13世紀からの陶磁器などの遺物や建物跡、井戸跡は確認されているが、直接、館の遺構といえるものは発見されていない。 *1559年(永禄2年)「北条氏所領役帳」に「福岡」「川崎」の地名が記載される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上福岡市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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