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上総氏(かずさし)は、坂東八平氏の一つで、千葉氏等の房総平氏の惣領家に当たる。上総・下総に広大な領地を有し、東国一の勢力を誇ったが、その力を恐れた源頼朝によって「坂東にてかくてあらんに、誰かはひき働かさん」として粛清された。 == 経歴 == 平常長の死後、その長男の佐賀常家が上総権介の地位を世襲したが、嗣子を残さず没した為、五弟の常晴が養子となる形で上総介の地位と先祖代々の下総国相馬郡を有し相馬五郎と名乗った。これが上総氏の始まりである。 尚、常家の次弟の常兼は千葉大夫と号し、この系統が千葉氏となり、ここに房総平氏は二分されることになったのである。尤も、上総氏の方が嫡流で千葉氏は庶流であった。 平常晴は息子の常澄と仲が悪かったのか、兄・常兼の長男であるが庶子の常重を養子として家督及び相馬郡を譲った。これを不服に思った常澄は源義朝を抱き込んで相馬郡を奪回することに成功した。相馬郡を巡る争いは常重の息子・千葉常胤の代まで尾を引いている。 平常澄の後を長男・伊西常景が継いだが、弟である次男・印東常茂に打倒され地位を奪われた。印東常茂は藤原親雅を介して平氏に近付き、他方、八弟の介八郎広常は源氏に近付き、一族は二分されるようになった。 1180年に源頼朝が挙兵すると、広常は上総氏全一族を掌握して頼朝の許に駆け付け、一方、大番役として京都にいた印東常茂は平家の頼朝追討軍に先陣押領使として加わったが、富士川の戦いで広常により討たれた。かくして広常は名実とともに上総氏の当主になった訳である。 その後、上総広常は佐竹氏追討等数々の武功を立てたが、その振る舞いに傲慢な所が多く、頼朝に謀反の疑いを掛けられ、嫡子・能常と共に1183年に頼朝の意を受けた梶原景時によって斬殺された。所領は没収され、広常の弟達も千葉常胤にお預けの身になった。後に広常が納めた文章から広常の無実が明らかとなり、弟達は放免されたが、一連の頼朝のこの行為は来たるべき大豪族抑圧政策の前触れと言えよう。 広常滅亡後、上総権介の地位は常胤の孫・境常秀が継いだが、常秀の息子・千葉秀胤の代に義兄の三浦泰村に属して1247年の宝治合戦にて族滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上総氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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