|
上西 弘次(うえにし こうじ、1938年11月24日〔『ぼくら』1967年11月号インタビューより。〕 - 没年不詳)は、日本の俳優および殺陣師。長崎県出身〔。 剣道の有段者で、殺陣師の久世竜に師事し、三船プロダクションの殺陣師として数多くの映画・テレビ作品に関わる。その後、プロデューサー業に転向。企画会社を設立する。 == 経歴・エピソード == 少年時代は海に潜り、手製の銛で魚を突いて獲るなど、優れた運動神経を生かし、学生時代はスキー、野球、馬術など、スポーツの才能を開花させ、将来はパイロットかプロ野球選手になること夢見ていたという〔。 1955年、父親が東映の殺陣師だった関係から、当時の人気俳優・明智十三郎に呼ばれ上京。演技を学ぶ傍ら、映画監督・丸根賛太郎の書生を務めていた。本人は俳優より監督志望だったため、「監督直下の書生になれば自分もすぐ映画監督になれる」と考えていたが、丸根から「役者をやれ」と言われ、映画『快傑修羅王』でデビュー。 当初はフリーランスで活動していたが、久世竜の門下となり、東宝七曜会に入会。その後、三船プロダクションが発足するとそのまま同プロに移行し、久世七曜会のメンバーとなる(久世浩、薩摩剣八郎は後輩にあたる)。 1967年、『ウルトラセブン』のスーツアクターを担当する。初代ウルトラマンの古谷敏ほどに宇宙人的な長身痩躯ではなく、逆に筋肉質で戦闘的な体型であった。当初成田亨はセブンをデザインする際、古谷がウルトラマンに続き再度これを演じることを前提としてデザインを進め、本人にも依頼していたが、古谷がこれに難色を示したため頓挫。新たに選ばれた上西の日本人体型のボディーラインの逆三角形で骨太の体格を生かすため、当初の決定デザインとは異なるデザインとなり、セブンの胸・肩に鎧状のプロテクターを配置し、上半身に甲冑をまとったような重量感を持たせ、演者の体型とのバランスを取った。さらに、デザイン当初は青だった体色を上西の体型のイメージに合わせ赤に変更したとも語っている。ただ、セブンのデザイン決定自体は上西の起用以前との指摘もあり、これが正確な経緯かどうかは、制作当時の時代もあって記録も曖昧なため定かではない。 『ウルトラセブン』への出演を依頼された時は「自分の顔が出ない」ということで乗り気ではなかったが、勉強のつもりで引き受けたという。とはいえ、ウルトラマンの戦闘スタイルを研究した上でそれとは違うセブン独自のスタイルを築くなど、役作りには積極的に取り組んでいた。ある時、ウルトラセブンの姿で身障児施設に慰問に行った際、一人の少年が自分の元へ駆け寄ってきた。のちにその少年がそれまで歩くことはおろか、立つことさえ出来なかったと聞いてヒーローの影響力の大きさに気付き、それ以来スーツアクターという仕事への偏見がなくなったという。 『セブン』終了後の約1年間は、円谷エンタープライズ所属の俳優として活動していた。この時期の特撮ものの仕事としては、『戦え! マイティジャック』第22話の巨大ロボット「ビッグQ」が挙げられる。 1971年放送の『宇宙猿人ゴリ』では、スペクトルマンと、ゴリの部下・ラーのスーツアクターを兼任。ラーに至っては声優としてその声も担当した。このほか、特撮パート(ほか本編パートのスペクトルマン登場シーンでも)の殺陣師と役者のキャスティングも担当するなど、かかわりは深い。上西はこれ以前に、同作のパイロット版でも、スペクトルマン(素顔の一部が露出するマスクは上西の発案によるもの〔『ファンタスティックコレクションNo.17 ピー・プロ特撮映像の世界』(朝日ソノラマ・1980年) p.15、46〕)とゴリ(テレビシリーズではラーに変更し、着ぐるみを流用)のスーツアクターを兼任した。上西は「役者としては、スペクトルマンよりもラーのほうに愛着がある」と語っていた〔『ザ・スーツアクター』 p.49〕。また、『宇宙猿人ゴリ』放送前のインタビュー〔『読売新聞』 1970年12月22日、21面。「再び仮面をかぶる上西弘次」。〕でスペクトルマンを演じることに関して、「俳優として仮面を着けて演じることには抵抗がある」〔としながらも、「ウルトラセブンのイベントで各地を回った際に、子供たちが夢中で追いかけてくる姿が忘れなくてスペクトルマンを演じることにした」〔と語っている。 『宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン』放映当時に東芝レコードから発売された主題歌レコードの一部には、上西がこれを歌ったものが確認されている。 1973年の映画『狼の紋章』で、松田優作に殺陣を教えて以来、松田は上西を兄貴分として慕い、晩年の出演作『ブラック・レイン』のころまで交流が続いていたという。なお、松田の主演ドラマ『探偵物語』に「スペクトルマン」が登場するエピソードが存在するが、上西はこれには一切関与していなかったとのこと〔『ザ・スーツアクター』 p.50、52〕。 1977年、プロデューサー業に転向、映画やCMのプロデュースを手がけた。主な作品に、はごろも缶詰の『シーチキン』のCMがある。 『ザ・スーツアクター』(雑誌『宇宙船』Vol.48に掲載されたインタビュー記事の完全版)によれば、1980年代始めに、『気功拳士シャークマン』という実写ヒーロー作品を企画し、『仮面ライダースーパー1』の後番組として毎日放送に売り込んだこともあった。インタビュー当時には、この企画を再び練り直しているとも語っていたが、実現には至らなかった。 2014年12月13日に開催された「古谷敏のウルトラワンマンショー」内で、ゲスト司会の河崎実より上西がすでに亡くなっていることが明らかになった旨報告があり、古谷が故人を偲ぶ文章を朗読した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上西弘次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|