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下朝鮮 : ウィキペディア日本語版
嫌韓[けんかん]

嫌韓(けんかん)は、韓国朝鮮民族を対象とした嫌疑・嫌悪などの感情をあらわす用語。日本、中国、また世界各地で見られる〔In Mongolia, sex tourism by S. Korean males leads to anti-Korean sentiment Hankyoreh Jul.15,2008〕〔韓国人女性8000人、米国で‘遠征売春’ 中央日報 2006.06.21〕〔EDITORIALS Deliver them from 'hell' 中央日報 October 19, 2002〕。
日本では2005年頃に「マンガ 嫌韓流」のヒットにより広く知られるようになった。類語に反韓対義語親韓中国語では反韓情緒反韓主義英語圏では といわれる。


== 日本における嫌韓 ==

=== 第二次世界大戦前後までの対朝鮮認識 ===
日本では、元寇応永の外寇において起きた、壱岐対馬島民の虐殺〔元寇以来、子どもを泣き止ませるのに「いつまでも泣いているとムクリ・コクリが来るよ」という言い方がされるようになった。ムクリは蒙古、コクリは高句麗即ち高麗のことであるという。転じて、鬼のように恐ろしいものや無理非道で理不尽な物事のたとえとして使用された。もっとも、ムクリコクリは「蒙古国(むくりこく)」という言い方が変形したもので、本来は高麗とは何の関係もない表現であったというのが有力である。〕や、文禄・慶長の役のような歴史の積み重ねがあった。よしみを通じる目的である朝鮮通信使においてさえも、その紀行文などには小中華思想に基づく日本を野蛮人とみなす蔑視がみられた(例:日東壮遊歌)〔古田博司「「相互認識」 東アジア・イデオロギーと日本のアジア主義」第1回日韓歴史共同研究、2005年。p269-270〕。朝鮮においては朝鮮こそ中華であるとの中華秩序論が保守的な儒学者を中心に広く流布した。互いに相手を蛮族とみなす思想は表面的な友好の裏で火種のようにくすぶった。
19世紀末から日本では、「欧米列強植民地にならない国家づくり」のため、明治維新によって急速な洋化をすすめていた。当時、欧米列強の植民地政策の波は東アジアにも及び、隣国の朝鮮もロシア南下政策の危機にさらされていた。朝鮮半島は日本にとって重要な緩衝地域であり、朝鮮に「革命」を輸出し、朝鮮を近代国家とし、共に協力しながらその脅威に備えることはできないかと構想していた〔金完燮「親日派への弁明」〕〔崔基鎬『日韓併合 歴史再検証 韓民族を救った「日帝36年」の真実』 祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2007年〕が、李氏朝鮮はこれを受け入れる気は毛頭なく、不幸なすれ違いが起こったからである。朝鮮の宗主国であった国は弱体化し、日本では、欧米列強より先に朝鮮を日本の陣営に引き込むことは地政学上も重要と考えられていたが、朝鮮においては意見の相違があった。明治政府は朝鮮に使節を送ったが、洋服の装いで西洋化した日本側の使節を「もはや日本人(徳川幕府側の人間)ではない」として拒絶。これに憤激した日本側では征韓論が起こった。知識人でも、たとえば、福澤諭吉は、朝鮮を近代化し、従属関係にあった清国から独立させる構想を抱き、金玉均支援などを行っていたが、甲申政変が清国軍に征圧されて失敗に終ると「脱亜論」を唱え、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」などと表現するようになった〔なお、脱亜論は無署名文であり、近年は福澤執筆説に対して疑問が提出されている。詳細は脱亜論を参照。〕。それでも、韓国併合前には一定の尊敬をもって朝鮮人をみる人が多かったといわれるが、朝鮮の実情や民度を目の当たりにした併合後には、多数の日本人は朝鮮人を「遅れた民族」と認識するようになった。そして、ロシア革命後の朝鮮における社会主義の急速な浸透や、三・一独立運動が発生した結果、従来の認識に加え、朝鮮人の思考回路は日本の国体を脅かす危険な存在とみなす考えも生まれ、関東大震災における朝鮮人虐殺事件の要因の一つとなった。
一方で、朝鮮人の対日蔑視も小中華思想から来ており、中華文明との距離が小さい朝鮮を「兄」、距離が大きく中華帝国との結びつきも弱い日本を「弟」とし、「中華文明の恩恵少なき野蛮な弟・日本を文明国たる兄・朝鮮が教化する」という考えが前提となっている〔。これは、両国の関係が表向き対等となっていた室町、江戸時代に至っても残存し、実情にそぐわない自尊主義的な対日観を朝鮮の知識人にもたらした。現在でも、この発想は韓国知識人の発言などにたびたび散見される(韓国起源説など)。日本による韓国併合での反発は知識人を支配者側に同化させないという世界の植民地支配と対置して珍しい事態をもたらした。以降、朝鮮の知識人は近代的知識人に世代交代してからも日本を普遍文明とみなすことは少なく、これが日本人による反発をさらに強めたとする主張が存在する。しかし、日本・朝鮮の双方とも近代以前の文明に対する認識を根拠に差別意識を持ったのは精々知識人層にかぎられており、一般庶民への浸透度に関する疑問も長らく唱えられつづけている。少なくとも、一般庶民における蔑視感情は併合の前後をとおしてピークに達していることは確認できる〔朝鮮憲兵隊司令部『朝鮮同胞に対する内地人反省資録』(内閣送付文書)、京城、1933年。〕。
第二次世界大戦の終結直後にも一時的に朝鮮人への反感が増幅した。これによって、朝鮮人の民族運動や権利獲得運動自体が危険視され、GHQ/SCAPはこれらの活動を危険視し解体させた。有名なのは、日本人菅谷政雄が、中国人、台湾人、韓国人を組織して三宮を中心に作った「国際ギャング団」であった。しかし、日本政府がこの無法を許していたわけではなく、「国際ギャング団」も、当時、兵庫県警刑事課長だった秦野章(後の警視総監自民党参議院議員)によって幹部のほとんどを逮捕され解散に追い込まれた。こういった騒動はサンフランシスコ講和条約締結まで続き、この過程で一般の日本人の間にも同様の認識が広まり、韓国に対する嫌悪感が高まることになった〔『伝説のやくざ ボンノ』(幻冬舎) 〕。
韓国初代大統領李承晩は国策として、反共反日反中の3つの柱を据え、対馬は韓国領土であるとして返還を求めたり、サンフランシスコ条約が発効する直前、李承晩ラインを一方的に宣言、1953年には日本の漁船が韓国軍に襲撃され船長が死亡する第一大邦丸事件が発生、さらに独島義勇守備隊島根県竹島に不法上陸した。日本は度々抗議したが、韓国は竹島(独島)は韓国領土であると主張し続けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Anti-Korean sentiment 」があります。



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