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下村延太郎[しもむら のぶたろう] 下村 延太郎(しもむら のぶたろう、1867年10月16日 (慶応3年9月19日) - 1947年2月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 ==経歴== 京都府出身。下村良輔の息子として生まれる。1891年(明治24年)7月、海軍兵学校(18期)を卒業し、1894年(明治27年)4月、海軍少尉任官。日清戦争では「厳島」乗組として出征した。1897年(明治30年)12月、佐世保海兵団分隊長となり、以後、「秋津洲」「須磨」「鎮遠」の各砲術長、横須賀鎮守府艤装員、「千早」航海長、呉鎮守府参謀などを歴任。 1903年(明治36年)9月、海軍少佐に昇進。同年12月、第2艦隊参謀に就任し日露戦争に出征。日本海海戦などに参戦した。1905年(明治38年)6月、第1艦隊参謀に転じた。その後、日露戦争のため中退した海軍大学校に復校し、1906年(明治39年)7月、同校(将校科甲種4期)を卒業し「姉川」分隊長に就任した。同年9月、海軍中佐に進級した。 1906年11月、海大副官兼教官となり、以後、「周防」副長、呉鎮守府参謀を歴任。1911年(明治44年)12月、海軍大佐に昇進し海大教官に就任。以後、兼陸軍大学校兵学教官、海大教頭、軍令部参謀(第2班長)などを経て、1914年(大正3年)12月、「香取」艦長となる。その後、「鹿島」艦長、第2艦隊参謀長、軍令部出仕を歴任。1917年(大正6年)12月、海軍少将に進級し佐世保鎮守府参謀長となった。 1918年(大正7年)11月、海軍教育本部第1部長に就任し、1921年(大正10年)12月、海軍中将に進み海軍将官会議議員に就任。1922年(大正11年)4月、待命となり、1923年(大正12年)3月、予備役に編入された。1927年(昭和2年)9月、後備役となり、1932年(昭和7年)9月に退役した。また、1923年(大正12年)6月から1934年(昭和9年)6月まで海大戦史教授嘱託を務めた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「下村延太郎」の詳細全文を読む
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