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不白流 : ウィキペディア日本語版
江戸千家[えどせんけ]
江戸千家 (えどせんけ)は、川上不白に始まる茶道の流派。家元は東京都台東区池之端にあり、同門組織として不白会、関連機関の江戸千家茶の湯研究所がある。また川上不白を祖と仰ぐ流派として、東京都文京区弥生に家元がある江戸千家宗家蓮華庵杉並区高円寺に家元がある表千家不白流などいくつかの分派がある。
==歴史==
川上不白は元は紀伊新宮藩水野家に仕える藩士の次男で、当主水野忠昭の勧めにより表千家7代如心斎の門に入り茶道で身を立てることになった。折しも京都の三千家では如心斎を中心に一大改革期を迎えており、それを担う高弟の一人として七事式の制定などで活躍することになる。真台子ならびに長盆の伝授を受けた後の寛延3年(1750年)に、不白は江戸に戻ってまず神田駿河台で黙雷庵を営んだ。この折りに深川の豪商冬木家に千利休の遺偈が秘蔵されていることがわかり、不白の交渉により表千家に返納された。翌年(1751年)に如心斎が亡くなると、上京して4年にわたって後事にあたった。宝暦5年(1755年)再び江戸に帰ると神田明神境内に蓮華庵を営み、大名・豪商から町人や職人に至るまで幅広い層に茶道の手ほどきをしている。安永2年(1773年)に水野家下組屋敷に隠居したが、その後も30年以上にわたって活発に活動を続け文化4年(1807年)に世を去った。
その後代々江戸で新宮藩の茶頭や水戸徳川家の茶道師範などを務めていたが、幕末の4代蓮華庵(新柳斎)のときに新宮へ帰った。明治の初めに7代蓮々斎が再び東京に出て池之端に茶家を再興し、江戸千家の中興と称せられる。9代名元庵は病身で、家族や社中も家元を補佐して支えた。このため、名元庵は生前に家元の座を長男に譲り、名心庵宗雪が10代として家元を継承した。しかし、3年後に名元庵が没すると、名元庵の弟不式庵閑雪も10代家元を名乗り、江戸千家宗家蓮華庵を称して独立した。これについて、江戸千家宗家蓮華庵では、「名元庵の没後、宗家はじめ社中有志の相談の結果、皆様の「宗鶴先生(八代一元斎の妻)こそが江戸千家の式正の道統」という多数のご意見によって、宗鶴とともに宗家を支えて きた不式庵閑雪が十代家元を継承することとなりました」と説明し,名心庵は家督は継承したが、流派は継承していないとしている。両者を区別するために便宜上、江戸千家を「江戸千家(池之端)」、江戸千家宗家蓮華庵を「江戸千家(弥生町)」と呼ぶこともある。江戸千家宗家蓮華庵には財団法人として江戸千家茶道会、同門組織として不白会がある。
川上家浜町派は不白の高弟の川上宗什が浜町に居を構えたのに始まり、代々久留米藩有馬家の茶道役を務めていた。この流れでは維新後5代蓮心宗順の時の門人に益田孝(鈍翁)・馬越恭平ら当時の数奇者が多い。しかし6代素蓮宗順のとき関東大震災によって浜町の住居を焼失してしまい、家元としては一時断絶という形になる。7代蓮舟宗順は東京帝国大学法科大学を卒業後しばらく実業界にあったが、戦後になって高円寺で家元を再興し、このときから表千家不白流と称するようになる。一般財団法人として不白流白和会がある。
このほか、不白の門人の石塚宗通が代々伝えた流れでは明治になって岡倉覚三(天心)と交流があったことで有名であり、また同じく不白の門人で川上渭白が伝えた流れには岸田劉生夫人の岸田蓁(しげる)がいて、6代川上渭白と称して江戸千家渭白流を再興した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「江戸千家」の詳細全文を読む



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