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不知火光右衛門[しらぬい みつえもん]
不知火 光右衛門(しらぬい みつえもん(こうえもん)、1825年4月20日(文政8年3月3日) - 1879年(明治12年)2月24日)は、肥後国菊池郡陣内村(現:熊本県菊池郡大津町)出身の元大相撲力士。本名は近久(旧姓:原野) 峰松(ちかひさ みねまつ)。 なお、光右衛門が生まれる約20年前に亡くなった大関力士(本姓:平野)も「不知火光右衛門」を名乗っていた(1775年(安永4年) - 1804年8月19日(文化元年7月14日))。ここでは後に第11代横綱に昇進した不知火光右衛門について記述する。 == 来歴 == 1825年に肥後国菊池郡陣内村で農家を営む家に二男として生まれる。祖父の原野儀右衛門は土地相撲の大関を務め、峰松も16歳の時に祖父と同じ土地相撲に加入した。同郷の力士である不知火諾右衛門の弟子となり、大阪相撲での修行を経て江戸に出て、境川部屋門下となる。境川部屋から1850年11月場所に殿(しんがり) 峯五郎の四股名で初土俵を踏む。その後は熊本藩の抱え力士となり、1856年11月場所で新入幕を果たし、翌年に「不知火 光右衛門」と改名した。 1862年3月場所で大関に昇進すると、この場所に発生した前頭・小柳平助殺害事件によって出場を辞退するが、翌年3月場所で吉田司家から横綱免許を授与された。1866年4月場所4日目に足取り名人として有名だった両國梶之助(伊勢ヶ濱)の足を取って勝利した際は、花柳界で「足を取る相撲上手の両國関も足を取られてすってんころりん」と唄われた。 1869年11月場所(全休)を最後に現役を引退した。引退後は古巣・大阪相撲へ戻って下の名を「諾右衛門」と改名、1870年から3年に渡って横綱土俵入りのみを披露した。現役中から行っていた横綱土俵入りが「白鶴の翼を張れる如し」と形容される程に見事だったためと伝わる。また、年寄・不知火(初代)を襲名した。1879年2月24日に死去、53歳没。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「不知火光右衛門」の詳細全文を読む
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