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不破 哲三(ふわ てつぞう、1930年1月26日 - )は、日本の政治家。日本共産党前中央委員会議長。元衆議院議員。現在、党中央委員会常任幹部会委員で、党付属社会科学研究所所長。“不破”はペンネームで本名は上田 建二郎(うえだ けんじろう)。東京大学理学部物理学科卒業。日本共産党元副委員長の上田耕一郎は実兄。『道ひとすじ 不破哲三とともに生きる』(中央公論新社)の著書上田七加子は妻〔読売新聞・本よみうり堂(『道ひとすじ 不破哲三とともに生きる』上田七加子著) 〕。 == 来歴・人物 == 当時上田家には「跡取り」がいなかったため、父子共々養子として引き取られる。 両親は高知県の出身〔『時代の証言者・不破哲三2』読売新聞、2010年11月2日付。〕。 旧制東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)、第一高等学校を経て、東京大学理学部物理学科卒業。 1970年、40歳で日本共産党の書記局長に就任し、当時マスコミから「共産党のプリンス」と呼ばれた。1974年1月29日の予算委員会では、日本分析化学研究所が実施していた放射能測定で、データがねつ造されていることを指摘した(「米原子力潜水艦放射能測定不正事件」)〔 〕。 1982年に宮本顕治が中央委員会議長になり、不破が幹部会委員長に就任した。1987年に心臓手術のため幹部会委員長を降り、中央委員会副議長になった。村上弘委員長退任後、幹部会委員長に復帰した。選挙で党の躍進が続いた頃、マスコミから「スマイリング・コミュニスト」(微笑する共産主義者)(1998年度流行語大賞特別賞受賞)と呼ばれた〔ユーキャン新語流行語大賞全受賞記録 〕。1998年に、31年間対立・絶縁していた中国共産党との交流を再開した。 2000年の党大会で中央委員会議長に就任。2004年の党大会で全面的な綱領改定の提案をおこなった。2006年1月の党大会で高齢などを理由に議長職を退任し、党付属社会科学研究所の所長に就任した。 130冊以上の著作がある。また、「赤旗」の評論員論文・無署名論文の多くを執筆したともいわれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「不破哲三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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