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不破数右衛門 : ウィキペディア日本語版
不破正種[ふわ まさたね]

不破 正種(ふわ まさたね 寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は数右衛門(かずえもん)。本姓平氏家紋隅角切横一
== 生涯 ==
寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣・岡野正治(のち変名して佐倉新助)の長男として生まれた。母は同家臣の長沢六郎右衛門の娘。弟に佐倉慶也佐介亀八。妹に笹川只右衛門(本多忠孝家臣)室、上島弥介(浅野長矩家臣)がいる。
元禄3年(1690年)頃に浅野家家臣の不破数右衛門の婿養子に入った。養父・数右衛門が死去して不破家家督を相続し、数右衛門の通称も継いだ。赤穂藩では100取りの馬廻役・浜辺奉行をつとめた。
しかし、それから間もなく主君・浅野長矩の勘気を受けて藩を追われ浪人した。これは正種が家僕を斬ったのが原因のようで、那波屋記録には「元禄10年8月18日不破数右衛門が家僕を斬って閉門を仰せ付けられ、11月晦日閉門御免」とある(なお、実父の岡野も赤穂藩を追われているため正種と連座したものと思われる)。その後は江戸へ移り住んだが、元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は断絶となった。篭城になるとの噂を耳にした正種は数人の元赤穂藩士の浪人とともに赤穂城へ馳せ参じたとされるが、この浪人は父の佐倉新助で、家老大石良雄に断られて帰されている。赤穂城引渡し後、大石良雄が中心となって旧藩士の間で義盟が結ばれた。良雄が江戸へ下った際に、正種は義盟への参加を懇願。吉田兼亮のとりなしで正種の長矩の墓への墓参がかない、帰参した家臣として義盟への参加を許された。その後、松井仁太夫と変名して他の同志とともに江戸に潜伏した。
元禄15年(1702年)12月15日未明の吉良屋敷への討ち入りでは、裏門隊に属して屋外に配置されたが、こらえがたく持ち場を離れて屋内に突入している。一党中もっともめざましい働きをし、数人の敵を倒しその刀はささらのようになっていたと伝えられる。なお、吉良を討ち取り、泉岳寺への引き上げに際して、大石良雄に進言して大目付仙石久尚へ出頭して口上書を差し出すべきであると主張したともいわれている。その後、伊予松山藩松平定直の中屋敷へ預けられた。
元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により松平家家臣の荒川十大夫の介錯で切腹。享年34。主君浅野長矩とおなじ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃観祖剣信士。
なお、幼い遺児不破大五郎がいたが、父の本懐後に出家し、古川永昌寺の僧となっている(後に還俗)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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