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不良華族事件(ふりょうかぞくじけん)とは1933年(昭和8年)に発覚した華族の恋愛・不倫事件。ダンスホール事件とも呼ばれる。これは上流社会に属する女性らが関わる性的なスキャンダルとして主要新聞に報じられ、登場人物には伯爵夫人や大病院の院長夫人なども含まれていたことで当時広く世間の耳目を集めた〔山上次郎 『斎藤茂吉の生涯』 文藝春秋、昭和49年刊〕。 == 事件の発端 == この事件は1933年(昭和8年)11月13日にフロリダダンスホールの主任教師が警視庁に検挙されたことに始まる〔浅見 (2007) pp.132〕。東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社)は同年11月15日付の朝刊でこの事件を報じた。 朝刊が報じるところによると、主任教師は「日本一の好男子」と自称して女優やダンサー、良家の娘、有閑マダムなど多くの女性と関係を持っていたといい、新聞記事の中で主任教師は「色魔」とまで呼ばれている〔浅見 (2007) pp.132-133〕。当時は姦通罪が存在した時代であり、主任教師の行為は検挙の対象となり得たのである。 警視庁の取り調べの中で主任教師は自分に女性客を紹介したのは歌人の伯爵吉井勇の妻・徳子であることを自供した〔浅見 (2007) pp.133〕。徳子は身を隠していたが警視庁は徳子を捜し出し取り調べを行った〔浅見 (2007) pp.133〕。 徳子は伯爵柳原義光の娘であり、義光の叔母には明治天皇の側室で大正天皇の生母である柳原愛子がいる。義光の父で愛子の兄の柳原前光は駐露公使や枢密顧問官などを歴任している。また、義光の妹に歌人の柳原白蓮がおり、1921年(大正10年)には白蓮が愛人と失踪する白蓮事件を起こしている。そのような経緯もあり徳子が警察の取り調べを受けたことは世間の注目を集めたのである〔浅見 (2007) pp.134-135,137-138〕。 徳子が吉井勇と結婚したのは1921年、徳子22歳、勇36歳の時だが、同じ伯爵家同士の結婚とはいえ徳子の実家の柳原家は堂上華族、吉井家は新華族である。そのためか勇は徳子とは距離を置いており、そのことが影響して徳子は遊び癖がついてしまう〔浅見 (2007) pp.135〕。徳子が事件に関与していると分かり、世間が好奇の目で見ている時でさえ、当時の上流階級の中には徳子の素行から事件を意外には感じなかった人もいた〔浅見 (2007) pp.135〕。 徳子は警視庁の留置場に一晩留置された後、実家の柳原家に帰され、姦通罪では起訴されることはなかった〔浅見 (2007) pp.136〕。 徳子の遊び仲間としては歌人斎藤茂吉の妻・輝子や近藤廉平男爵の次男・廉治とその妻・泰子などがおり、木戸幸一の『木戸日記』(1933年(昭和8年)11月22日)には宮内省警衛局皇宮警察部が宮内省宗秩寮総裁の木戸に対して調査報告を行った記述があり、その報告によれば徳子は1931年(昭和6年)8月中旬より近藤廉治と関係を持っていたという〔浅見 (2007) pp.135-136〕。斎藤輝子はこの事件の結果、夫と長期に渡って別居することになる〔浅見 (2007) pp.135〕。また、この事件に関連して小説家の久米正雄や里見弴などが花札賭博開帳の廉で検挙されている〔浅見 (2007) pp.135-136〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「不良華族事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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