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『不連続殺人事件』(ふれんぞくさつじんじけん)は、坂口安吾の長編小説。安吾が初めて書いた推理小説である。次々と発生する不連続な殺人事件に、名探偵・巨勢博士が「心理の足跡」を推理しながら動機を追跡してゆく物語。雑誌掲載時には、作者・坂口安吾から読者への挑戦として、真犯人当ての懸賞金がかけられた〔「坂口安吾 作品ガイド100」(『KAWADE夢ムック文藝別冊 坂口安吾―風と光と戦争と』)(河出書房新社、2013年)〕〔坂口三千代「『不連続殺人事件』」(『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』)(東京創元社、1985年)〕。 1947年(昭和22年)8月1日、大地書房発行の雑誌『日本小説』9月号(第3号)から、翌1948年(昭和23年)8月号まで連載された(挿絵:高野三三男)〔雑誌『日本小説』は大地書房から1947年(昭和22年)3月に創刊され、質の高い娯楽小説を目指し、最初の中間小説雑誌と呼ばれた。〕。単行本は1948年12月にイヴニングスター社から刊行され、第2回探偵作家クラブ賞を受賞した〔「年譜」(文庫版『堕落論』)(新潮文庫、2000年)〕〔「年譜」(文庫版『白痴・二流の人』)(角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)〕。 1977年(昭和52年)には、同作を原作とし製作・公開された曾根中生監督の日本の長篇劇映画もある。また、1990年(平成2年)にはフジテレビで2時間ドラマも作られている。 == 作品成立・背景 == 少年時代から欧米の探偵小説愛読者であった坂口安吾は、戦時中の飲み歩くのも不自由となった頃、同人誌『現代文學』の仲間(大井廣介、平野謙、荒正人)らと、大井邸で探偵小説の犯人当てゲームに熱心だったが、自身も探偵小説執筆の構想を考えていた〔「私の探偵小説」(宝石 1947年6月号に掲載)〕。安吾が犯人を当てることはほとんどなく〔〔大井広介「犯人あてと坂口安吾」(『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』)(東京創元社、1985年)〕、「きみたちには、ぜったい犯人のあたらない探偵小説を、そのうちに書いてみせるよ」と言っていたという伝説もあり〔都築道夫「安吾流探偵術」(『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』)(東京創元社、1985年)〕。ある日安吾は、約350枚の原稿用紙の束を持って大地書房の雑誌『日本小説』の編集部に現われ、雑誌の編集意図が気に入ったのでこの長編小説を連載してくれないかと、編集長の和田芳恵に申し入れたとされる〔。 また、以前から雑誌『日本小説』記者・渡辺彰に小説の執筆依頼をされていたともされ〔、荏原郡矢口町字安方(現・大田区東矢口)の安吾の家で毎週水曜日に行われていた飲み会に参加していた渡辺彰が、そこで焼酎を飲んだ後に喀血したことに責任を感じた安吾が、渡辺の療養費のために『不連続殺人事件』の原稿料を彼に回し、安吾自身は出版社から報酬を貰わず、雑誌連載中に行われた読者への懸賞金も、安吾の自腹から出していたという〔。 懸賞金は、安吾から読者への挑戦状という形で、「犯人を推定した最も優秀な答案に、この小説の解決篇の原稿料を差し上げます」という真犯人当ての課題が連載第1回に掲載された。この犯人当てで大井廣介、平野謙、荒正人、江戸川乱歩らの文人も指名して挑戦し、結果は最終回で発表されて4人の読者が犯人推理について完全答案を提出し、文人では大井廣介が4等入選した。1等は、物理学校の生徒だったという〔。 安吾の随筆『私の探偵小説』では、「私もそのうち探偵小説を一つだけ書くつもり」としていたが〔、『不連続殺人事件』に続いて長編『復員殺人事件』(未完)やシリーズ物の『明治開化 安吾捕物帖』、その他短編を中心に20作ほどの探偵小説を執筆することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「不連続殺人事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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