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世泰親王(よやすしんのう/ときやす―、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。長慶天皇の皇子(第一皇子か)で、母は従二位教子と推定される。 生前の事績については一切不明であり、わずかに『新葉和歌集』哀傷・1389-1390の贈答歌と詞書によって、親王の名が知られているに過ぎない。 すなわち、親王が薨去して如意輪寺に葬られた翌年、教子が寺に籠って冥福を修していたところ、長慶天皇が御製を賜ってこれを慰め、教子も和歌を奉答したという。二首が親王の冥福時の贈答であることに加え、子に先立たれた人々の歌群に属することから考えても、作者の天皇と教子を親王の父母と解釈するのが最も自然である。また、如意輪寺に葬られているので、薨去の時期は吉野に行宮が置かれた文中2年/応安6年(1373年)秋から天授4年/永和4年(1378年)の間となろう。 なお、近世には、『新葉集』中の「御製」を全て後亀山天皇の作と取り違えていたため、親王も同天皇の皇子と誤られていた。中には、一品大宰帥(南朝系図・『系図纂要』)あるいは東宮(『南朝公卿補任』)として、天授3年7月10日(1377年8月14日)に18歳で薨去したと記すものもあるが、何れも根拠のない俗説である。 如意輪寺(奈良県吉野町)裏手の親王墓は1879年(明治12年)10月に治定され、隣接する後醍醐天皇塔尾陵とともに現在宮内庁の管理下にある。ただし、『吉野名勝誌』(1911年)は、この治定墓が楠木正行の髻塚であると指摘し、実際の墓は如意輪寺付近の「児童松」という地に葬ったとの古老の伝を紹介している。 == 参考文献 == * 林水月 『南朝遺蹟吉野名勝誌』 吉川弘文館、1911年、 * 芝葛盛 「長慶天皇の皇胤について」(『史苑』第2巻第1号 立教大学、1929年4月、) * 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815 * 岸本愛彦 「長慶天皇皇胤考」(『家系研究』第38号 家系研究協議会、2004年、) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「世泰親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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