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若彦路(わかひこみち)は、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。 江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』巻之一堤要部・巻之四十一古跡部に拠れば、九筋のひとつに数えられる古道で、駿河へ至る官道であったという〔海老沼(2011)、p.51(52)〕。「若彦」の呼称は日本武尊(ヤマトタケル)の子稚武彦王に由来するという。 甲斐国から駿河国へ向かう街道には若彦路のほか、甲府盆地から富士川沿いに南下する河内路や、甲府盆地から右左口峠を超えて富士東麓を南下する中道往還が存在する。 == 『吾妻鏡』における若彦路と道筋 == 史料上の初見は『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月13日条で、甲斐源氏挙兵に際した軍事行動において登場する〔海老沼(2011)、p.52(51)〕。 『吾妻鏡』に拠れば、治承4年4月、後白河法皇皇子・以仁王が平家一族追討を諸国の源氏に呼びかけ、治承・寿永の内乱が発生する。同年8月には伊豆国で源頼朝が挙兵し、甲斐源氏の一族も同時期に挙兵している。『吾妻鏡』では、頼朝は9月20日に甲斐源氏の一族に対し黄瀬川(静岡県沼津市)へ参陣命令を下し、「若彦路」が登場する10月13日を挟んで、10月18日に黄瀬川で頼朝と参会し、平家勢との富士川の戦いが発生したとしている。一方で、甲斐源氏の一族はこの段階では頼朝の意向に従わず独自の判断で行動していた点が指摘され〔秋山(1989)〕、頼朝の行程からも無理がある点が指摘される〔秋山(1989)〕。 『吾妻鏡』治承4年10月13日条では、同日朝に武田信義ら甲斐源氏の一族と北条時政・義時は駿河国へ向かい、暮れ方に大石駅に宿している。さらに駿河目代の軍勢が富士野を廻って襲来すると、「富士北麓若彦路」を越えたとされている。「大石駅」は山梨県南都留郡富士河口湖町大石に比定する説が主流となっている〔『角川日本地名大辞典』、『山梨県の地名』、『山梨県史 通史編2 中世』、海老沼(2011)〕。富士河口湖町大石は河口湖北岸に所在し、西は本栖方面、東は御坂路に近い。 一方で、大石寺の所在する静岡県富士宮市上条に比定する説もあるが〔『角川日本地名大辞典22 静岡県』,『日本歴史地名体系22 静岡県の地名』ほか〕、海老沼真治は甲斐源氏の一行が明け方に甲府盆地を発しその日の夜に宿所とするには距離が遠すぎる点や、戦国時代の中道往還や御坂路(甲斐路)における一日の軍勢移動の記録から、富士河口湖町大石に比定する説を妥当としている〔海老沼(2011)、p.52(51)〕。さらに、『吾妻鏡』治承4年10月23日条の末尾に「至駿州」とあることから、「大石駅」は駿河国内に所在していなかった点を指摘している〔海老沼(2011)、p.52(51)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若彦路」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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