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藤本 英雄(ふじもと ひでお、1918年5月18日 - 1997年4月26日)は、プロ野球選手・監督。朝鮮釜山生まれ、山口県下関市彦島出身。 日本プロ野球史上初の完全試合達成者。日本プロ野球史上最年少監督。 旧名「李 八龍」、中学時代は「藤本 八龍」。1943年より「中上(なかがみ)」姓。 == 来歴・人物 == 釜山で生まれ、8歳の時に彦島に移り、彦島小4年で野球を始めた。旧制下関商業学校時代は1935年春と1937年春に甲子園出場。秋に明治大学を卒業〔太平洋戦争の影響で大学の卒業時期が早まった。〕 し、同年シーズン中の東京巨人軍に入団。明大時代に通算34勝(歴代10位、明大の投手としては現在も最多)を挙げて優勝投手にもなった六大学随一の豪速球投手のプロ入りで、当時主将の水原茂が応召された直後ということもあり、9月27日の初登板の際には読売新聞に先発予告が掲載されるなど大々的に宣伝され、当時の巨人主催試合の動員新記録(16,942名)を作った。初年度に無傷で10連勝する。 2年目のには34勝、防御率0.73、奪三振253で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振を受賞し、投手三冠を達成。同時に勝率.756で最高勝率を受賞し、完封19もリーグ1位で、春の沢村栄治、秋のヴィクトル・スタルヒンに次ぐ日本プロ野球史上3人目の投手五冠王〔『プロ野球データブック・最新版』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1995年)〕を達成している。なお、この年の防御率0.73、シーズン19完封は現在も日本記録として残っている。また、同年5月22日の対名古屋軍戦(後楽園球場)でノーヒットノーランを達成した。は投手で3番を打ち、監督も兼任。人員不足の戦中にあってチームを支えた。25歳での監督就任は日本プロ野球史上最年少記録である。 途中まで監督を兼任し、同年シーズン中に中島治康が兼任監督として巨人に復帰したのを受けて選手専任に戻る。しかし同年6月、支度金3万円を受け取って川上哲治が巨人に復帰することになった際、先に巨人から支度金1万円を受け取っていた藤本は、巨人からその返還を求められた。球団側は、他の選手に支度金が波及することを恐れて、川上だけの特別扱いとするために藤本に返還を要求したが、これによって球団に不信感を抱いた藤本は1946年をもって巨人を退団。その当時新リーグを立ち上げ、選手集めを行っていた国民リーグに応じかけるものの、連盟の圧力によりそれは阻止され、最終的に中日へと移籍した。は中日でプレーするが、肩を痛めシーズン後半を棒に振る。同年オフ、巨人の総監督として指揮を執っていた三原修が藤本に復帰要請し、中日は藤本を戦力として計算できないと判断して無条件で放出した。 に巨人に復帰するが、前年に肩を痛めており、シーズン初めは主に外野手として出場。しかし今度は足を故障し、投手へと戻らざるを得なくなった。幸い、外野手に転向している間に投球ができる程度に肩は回復しており、投手復帰のため練習をしていた頃に、ボブ・フェラーの投球術の本を参考に「スライダー」を習得。肩の故障で球威は落ちたものの、復活。にはラビットボール導入でリーグ全体の投手成績が悪化する中、リーグでただ一人防御率1点台(1.94)を記録し三度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、勝利数も24勝(2位)をあげるなど安定した成績を残した。青田昇によると、「藤本英雄のスライダーは、投げてから手元でホップするところまではストレートと同じで、そこからスッと曲がった。後のプロ野球で藤本英雄と同じスライダーを投げたのは、稲尾和久と伊藤智仁しかいない」であるという。 6月28日の対西日本パイレーツ戦(青森球場)で日本プロ野球史上初の完全試合を達成。この試合の先発予定は多田文久三であったが、多田が食あたりで腹を壊したため藤本が急遽先発となったものだった。しかも藤本自身も前夜「青森での登板はないだろう」と判断して、函館から青森に移動する青函連絡船の中で徹夜マージャンに興じ、ほとんど睡眠をとらない状態で登板しての記録達成だった。しかし、この試合は新聞記者は4人いたがカメラマンがいなかったため、達成時の写真がないという結末となった(梅雨を避けての東北・北海道遠征の最中で前日の函館での試合のあと、遠征に帯同していた記者たちのほとんどが東京に戻ってしまったという)〔『巨人軍5000勝の記憶』収録の6月29日付読売新聞参照〕。当時中学生だった寺山修司がこの試合を観戦していた。からまでの間毎年15勝以上を記録し、別所毅彦・大友工らとともに第二期黄金時代の巨人の投手陣を支えた。に指のケガにより1勝に終わる〔『週刊ベースボール』2010年第13号(4月5日号)、ベースボール・マガジン社、32頁〕。 は開幕から戦列を離れていたが、唯一の登板となったシーズン閉幕間際の10月11日の広島戦(和歌山球場)で試合中盤の5回から登板し被安打1に抑え、勝利投手となって200勝を達成し同年限りで引退した。 非常に安定していた投手で、通算勝率.697は通算2000投球回数以上では歴代1位。また、通算200勝以上で唯一通算100敗を記録しなかった投手である(通算150勝以上でも他に斎藤雅樹のみ)。 からまで巨人コーチ・二軍監督を務めるが、1957年シーズン終了後に発生した球団社長品川主計と水原監督との騒動に巻き込まれ辞任する。その後大和証券の監督に就任。読売新聞ロサンゼルス支局駐在員も務めた。 に野球殿堂入り。1997年4月26日、心筋梗塞のため死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤本英雄」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hideo Fujimoto 」があります。 スポンサード リンク
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