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中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる〔Online Etymology Dictionary 〕。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する〔Merriam-Webster Dictionary 。〕〔Dictionary.com 〕。例えば、例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)と呼び、「medieval Japan」(中世日本)とは呼ばない。 == ヨーロッパ == イタリア・ルネサンスの時代には、栄光の古代ギリシャ・ローマが衰退したのちに、ゲルマン民族が支配する「暗黒時代」となり、ルネサンス(復興)の時代を経て「現在」(啓蒙主義の時代)に至ると考えられた。栄光の古代と復興後の現代の中間に横たわるこの暗黒時代は中世と呼ばれ、古代―中世―近代の三時代区分法が西洋史の大きな枠組みとして広く使われるようになった。 生産関係に重点を置くマルクス主義歴史学(唯物史観)の5時代区分論(原始共産制・古代奴隷制・封建制・資本主義制・共産主義制)においても基本的には同様で、中世は封建制・農奴制社会とされる。ただ唯物史観は、古代から退化して現代にいたるのではなく、生産手段の継続的な進歩という進化論的視点をとる。 伝統的な西洋史の時代区分における中世は、一般に5世紀から15世紀、歴史的大事件で捉えるならば西ローマ帝国滅亡(476年)のあたりから東ローマ帝国滅亡(1453年)のあたりとされ、ルネサンスから宗教改革以降を近世とする。ただしルネサンスは国によって時期が大幅に前後することもあって、これを中世に含めるかどうかについては古くから議論があった。 中世はさらに、ゲルマン民族の大移動(蛮族の侵入)からマジャール人、ノルマン人の侵入が収まるまでの中世前期(early middle ages、500年頃から1000年頃)、十字軍により西欧が拡大し、汎ヨーロッパ的な権力を巡って教皇権が世俗王権と争う中世盛期(high middle ages、1000年頃から1300年頃)、ルネサンスの興隆や百年戦争の争乱を経て絶対王制に向かいはじめる中世後期(late middle ages、1300年頃から1500年頃)に分類される。 西ヨーロッパの中世はペストの流行、異端審問などに象徴される暗黒時代という見方をされていたが、新たな文化を生み出した時期でもある(例えば12世紀ルネサンス)として、歴史学の分野では再評価が行われている。しかし一般的には中世を暗黒時代とみなす風潮はなお根強い。また、12世紀になるまでは経済力・文化などの面などでイスラムや東ローマ帝国の後塵を拝していたのも事実である。 時代が下ると、西ローマ帝国の滅亡から東ローマ帝国の滅亡までという歴史的大事件の枠にはまった従来の中世観を見直して、より包括的な社会人類学の視点から中世を定義することが行われるようになった。すなわち、ゲルマン民族大移動収拾後の定住化と共にキリスト教が大衆へ浸透し、封建制社会が確立した9~10世紀頃をもって中世の開始、官僚と常備軍をもって地方分権的領主を圧迫していった国王が国内統一を成し遂げ、絶対王政による強大な中央集権国家を築いた16世紀末頃をもってその終焉とするものである。(このような見直しに伴う8世紀以前の時代区分については、古代末期を参照。) 近年では、これまでの古代 → 中世 → 近代の三時代区分に新たに近世(early modern period)という時代区分を加え、ルネサンスから絶対王政の終焉までをこの近世、それ以降を近代と考えることが主流となりつつある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中世」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Middle Ages 」があります。 スポンサード リンク
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