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中丸薫 : ウィキペディア日本語版
中丸薫[なかまる かおる]

中丸 薫(なかまる かおる、1937年5月23日 - )は日本の国際政治評論家。明治天皇の孫を名乗っているが〔中丸薫『明治天皇の孫が語る闇の世界とユダヤ: 太陽を心に抱いて』〕、異論もある(後述)。また、クレオパトラ推古天皇などの生まれ変わりとも称している〔中丸薫、飛鳥昭雄「ユダヤと天皇家の極秘情報と闇の権力」〕。国際問題研究所『太陽の会』(有限会社)総裁及び代表を称する。日本ペンクラブ会員。
== 経歴 ==

日本赤十字の看護師として大陸に渡り、満洲事変から日中戦争時期に抗日兵士の帰順工作を行ったという中島成子の娘として中国で生まれる。父親は明治天皇の隠し子と噂される堀川辰吉郎であると主張している。ただし中島成子の夫は中国人の韓景堂であり、中島も韓又傑、韓太太(「太太」とは中国語で“奥様”)と呼ばれていた。神野洋三『祖国はいずこ―韓又傑こと中島成子の生涯―』(作品社、1995年)、渡辺龍策『馬賊―日中戦争側面―』(中公新書、1964年)など、いずれの資料も中島成子の夫は韓景堂と記しており、堀川辰吉郎との関係については記述がない。森川哲郎は「この中島女史が、どういうわけか堀川氏と親交が深かったのである。一説には父娘だという噂もあるが、その真偽のほどは明らかでない」と記す〔『日本週報』1959年8月号、森川哲郎「不思議な人物」第4回、p.82。〕。
著書によれば、薫の生後45日後に盧溝橋事件が起こり、中島成子は関東軍の依頼により日中間の交渉を担うことになったため、薫は夫妻に預けられた。6歳の誕生日を迎えてまもなく、松村夫妻の故郷である山梨県甲府市に移住。1950年山梨英和女学院中等部に進んだという〔中丸薫『太陽を追って』p.61〕。そこで外国人教師から英語を学んだことがきっかけとなり、東京へ行くことを決意。猛勉強の末、親戚が住んでいた文京区にある東京都立小石川高等学校に進学した〔中丸薫『太陽を追って』序文で、エドワード・G・サイデンステッカーは小石川高校在学中の中丸からときどき訪問を受け、人生相談を持ちかけられたことを記している。〕。当時、小石川高校は1クラス約60名の生徒のうち、女子は10名程度しかいなかったが、薫は2年生のときに生徒会長に選ばれ、卒業するまで務めたという〔中丸薫『太陽を追って』p.65〕。また、英語研究会のリーダーを務め、第五福竜丸事件など当時の社会情勢に強い関心を持ち、友人らとカール・マルクスの『資本論』を読む勉強会も実施していた〔中丸薫『太陽を追って』p.66〕。
バーナード大学を経て〔Barnard College Archives Alumnae Biographical Files Biographical Files, BC 8.4 に1962年の卒業生としてMatsumara, Kaoru (Nakamaru)の記載がある。〕コロンビア大学政治学部に入学、東アジア研究所で国際政治学を専攻し卒業〔KAORU NAKAMARU's Career 〕。1970年代より、各国国王大統領首相、財界人やVIP、映画監督や芸術家などをインタビューするジャーナリスト、国際政治評論家として講演、執筆、テレビで活動。
その後も自らがプロデューサー、ディレクター、インタビュアーを務める対談番組を日米両国で持つと同時に、世界の紛争、戦争地帯に足を運び、当事国の国家元首たちと積極的に会談。その中には、リビアカダフィ大佐イラクサッダーム・フセインなど、西側諸国から敵視されていた人物もいた。中丸はイラン・イラク戦争の最前線でも取材を行い、そのVTRをフセイン大統領に見せて戦争をただちにやめるよう進言している。フセイン大統領に「なぜ戦争を続けるのか」と詰め寄る様子や、カダフィ大佐に「あなたは本当にテロリストか」と問いただす姿はテレビで放映された。それらの経験を通じて、私費を投じて紛争国の仲介役を務めるなど、民間外交に尽力するようになる。
NonProfitFacts.com には1991年認可とある。〕“The International Affairs Institute for World Peace”(国際問題研究所)をニューヨークで、また1991年に平和を願う人々の会"Following the Sun Association”(太陽の会)を設立。その際、各国国王や大統領、文化人から「あなたのあらゆる活動に賛同いたします」との直筆サインをもらい、これら要人を顧問および特別会員として迎えている。これらの会の立ち上げにより、武力と緊張を礎とする「力の道」による「ワンワールド」ではなく、相互理解と信頼を礎とした「命の道」による「ワンワールド」の実現を啓蒙する活動を本格的に開始した。インタビュアーとして活躍していた頃からこれまでに訪問した国は186カ国。
中丸は著書において、「人間復興を通した世界平和」を目指しているとし、「富や名声、権力が人間を幸せにするのではなく、本当の幸せは愛、調和、安らぎに満たされた心から生まれる。市民からVIPまで、一人一人の心の内側を平和にすることが世界平和を実現する」と訴えている。「太陽の会」という名称も、イソップ物語の「北風と太陽」にちなんで命名。中丸は著書の中で、「太陽はどんな人をも温かい光で包み込む。私たちもそのような心で生きなければいけない」という主旨のことを度々書いている。
1966年、俳優・中丸忠雄と結婚(2009年に死別)。一男一女がいる。長男の中丸忠弥〔中丸薫『中丸薫という生き方』p.151〕は中丸薫の著書『明治天皇の孫が語る闇の世界とユダヤ』の装画を担当している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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