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中井 啓一(なかい けいいち、1924年<大正13年>5月15日〔出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.290〕 - 1991年<平成3年>8月15日)は、日本のヤクザ、政治家。 高知市議会議員(1期)。暴力団・一和会最高顧問。中井組組長。元三代目山口組舎弟。 ==来歴== 大正13年(1924年)、高知市で生まれた 昭和18年海軍に召集された。昭和20年(1945年)の終戦後、高知に帰った。 昭和22年(1947年)、高知製缶に入社し、相撲部に所属した。同じ相撲部だった野崎義一を舎弟とした。その後、野崎義一は、西原俊幸(通称は人斬りのサイ。後の侠道会高知支部顧問)と決闘し、脇腹を刃物で刺されて、重体となったが、中井の輸血によって一命を取り留めた。中井啓一は西原俊幸への報復を指示したが、野崎が報復を止めた。 昭和28年(1953年)、高知市新京橋遊侠横町の不良の大将・安岡彰(通称はメリケンの安)が、出原 巌と出原の客分・山地秀夫に刺殺された〔事件の経緯は以下の通り。。 昭和28年(1953年)、出原巌は、高知市で、興行師・大城義雄と知り合い、格闘技の試合で出た。出原は、その試合を観戦していた安岡彰と知り合い、兄弟分となった。 同年、安岡彰の娘が死去した。安岡はヒロポンを乱用していたために、葬式を出すだけの金がなかった。出原が安岡の娘の葬式代を出した。これに、安岡が立腹し、出原と喧嘩になった。出原は、安岡を殴り倒した。 その後、安岡の子分・弘田武志が、日本刀を持って、出原の自宅に押しかけた。出原の客分だった山地秀夫が、弘田から日本刀を奪って刺し、重傷を負わせた。 すぐに、出原巌と山地秀夫は、それぞれ日本刀を持って、安岡彰の家に殴り込み、安原を21箇所斬って、殺害した〕。 昭和29年(1954年)、警察は、中井啓一の組織を、「中井組」と認定した。 同年、中井啓一は、高知女子大学出身の女性を妻とした。 昭和32年(1957年)、高知市議会議員に当選した。中井組若頭・大黒麗夫、高知市松淵町の寺田組・寺田貢組長が選挙参謀を務めた。 昭和33年(1958年)、三代目山口組・田岡一雄組長から盃を貰い、舎弟となった。 同年、出原組・出原巌組長と、中井の舎弟だった四国芸能・谷平龍雄と会談し、組織の統一を打診した。出原も谷平も、中井の案に反対した。 昭和36年(1961年)1月11日、出原巌は、高知市北農人町の出原自身が経営する賭場で、客の工員を殴り、死亡させた。出原は逃亡し、指名手配された。この事件で、出原組は衰退した。 同年1月、中井啓一の二期目の市議会議員選挙で、前回中井の選挙参謀だった寺田貢が立候補した。中井も寺田も落選した。大黒麗夫は、落選の責任を取って、中井組若頭を辞任した。その後、中井組豪友会・中山勝正組長らが、寺田組の賭場に殴り込んだ。豪友会組員1人が、寺田組組員に射殺された。 同年9月29日、出原巌は、神奈川県川崎市で逮捕された。出原は出所後、出原組を解散し、ヤクザから引退した。同年10月、中井啓一は、中山勝正を中井組若頭に任命した。 昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。1982年6月、山口組若頭補佐・山本広は、組長代行に就任した。 昭和59年(1984年)6月5日、山口組若頭・竹中正久が、山口組直系組長会で、山口組四代目組長就任の挨拶をした。同日、山本広、加茂田組・加茂田重政組長、佐々木組・佐々木道雄組長らが、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の四代目就任に反対した。 同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。中井啓一は一和会最高顧問に就任した。 昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。 昭和63年(1988年)10月、一和会から脱退し、ヤクザから引退した。 平成3年(1991年)8月15日、中井啓一は肺癌により死去した。享年67。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中井啓一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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