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中井 広恵(なかい ひろえ、本名:植山広恵(旧姓中井)、1969年6月24日 - )は、元LPSA(日本女子プロ将棋協会)所属の女流棋士。2014年1月現在はフリー。LPSA初代代表理事(2007年5月 - 2010年5月)。過去の女流棋士番号は日本将棋連盟所属時は旧17〔2011年に日本将棋連盟の女流棋士番号が改変され、現在の17番は千葉涼子がつけている。〕、LPSA所属時は7。タイトル獲得数は歴代2位。クィーン名人。北海道稚内市出身。佐瀬勇次名誉九段門下。 == 人物 == * 1990年代から2000年代にかけて、女流棋界において長らく清水市代との二強時代を形成した。1993年の女流名人位戦から2007年の倉敷藤花戦までの全てのタイトル戦に、中井か清水のいずれかか両方が登場している。 * 2002年、清水に次いで女流六段に昇段。 * 2004年、清水と女流棋士同士では初めての百番指しを記録(100局までで中井の40勝60敗)。 * 攻守にバランスのとれた本格的な居飛車党で、得意戦法は矢倉。 * 女流棋士の中では比較的男性棋士に近い将棋を指すと言われ、清水が男性棋士にはあまり指されない右四間飛車にこだわりを見せるのとは対称的である。男性棋士との対局では1993年12月、竜王戦で池田修一に初勝利し、公式戦で男性棋士を破った初めての女流棋士となった。ちなみに男性棋士との対戦成績は、19勝73敗(2009年4月27日時点)である。 * 2003年~2004年のNHK杯テレビ将棋トーナメントにおける活躍はめざましく、2003年は1回戦で畠山鎮に、2回戦では当時A級棋士だった青野照市に勝利し(3回戦で中原誠に敗退)、翌年も1回戦では佐藤秀司に勝利、2回戦ではタイトルホルダーの佐藤康光をあと一歩のところまで追い詰めた(この時解説を務めた先崎学は「九分九厘中井の勝ち」と評し、佐藤も対局後に「僕が負けてもおかしくなかった。」とコメントを残している)〔特に、対青野戦は両者共に和服で登場。2回戦にもかかわらず双方和服での対局は非常に珍しく、この対局にかける両者の意気込みを感じさせた。〕。 * 61年ぶりに実施された日本将棋連盟のプロ編入試験(2005年)では、女性唯一の試験官に選ばれ、受験者の瀬川晶司と六番勝負の第4局で対局。かねてから女流棋士の中には連盟の正会員の地位を求める声があり、このアピールの機会に、中井は周りの女流棋士やファンの期待を受けて対局に臨んだが、中盤まで優位に進めながら終盤の大悪手で逆転負けを喫した〔将棋界における棋士と女流棋士は別制度であり、女流棋士は連盟の正会員として認められていないため、正会員(棋士)にはある固定給や厚生年金・健康保険などがなく、棋士総会にも出席できない(2005年当時)。女流棋士たちの間には、中井がこの一局に勝てば、女流棋士の正会員化への道が開けるのではとの期待があった。この特例の編入試験の翌年、プロへの編入が制度化され、非常に高いハードルではあるが、女流棋士から正会員となる方法が一応はできた。また、中井らが連盟から独立してLPSAを設立した(2007年)後の2010年11月12日に行われた連盟臨時総会で「女流四段以上またはタイトル経験者」である女流棋士を正会員とすることが決議され、9人の連盟所属女流棋士が正会員となった。「女流棋士 (将棋)#正会員」を参照。〕。 * タイトル戦など重要な対局は和装で臨む。 * 1989年に将棋棋士で兄弟子の植山悦行と結婚し、3人の娘の母親でもある。 * 同門の中座真は同郷にして同学年で、中座が四段昇段を果たした際には実家に伝えた。 * 2006年12月、女流棋士新法人設立準備委員会の委員長に就任。女流棋士団体の日本将棋連盟からの独立のために各方面との調整や支援者集めなどに駆け回り、その結果、2007年5月に日本女子プロ将棋協会(LPSA)が結成され、初代代表理事に就任した。 * 2014年1月23日、LPSAを退会〔中井広恵六段 LPSA退会のお知らせ - LPSA・2014年1月24日〕。以後はフリーの女流棋士として活動することになった。 * 趣味はゴルフ、海外旅行。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中井広恵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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