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中井 洽(なかい ひろし、1942年(昭和17年)6月10日 - )は、日本の元政治家。民主党顧問。 衆議院議員(11期)、国家公安委員会委員長(第81・82代)、拉致問題担当大臣、内閣府特命担当大臣(防災担当)、法務大臣(第54代)、衆議院予算委員長、民社党副委員長、自由党副代表、民主党副代表などを歴任した。 父は元衆議院議員の中井徳次郎。 == 概要 == === 生い立ち === 満州国新京市(現在の中国吉林省長春市)に生まれた。終戦後の1946年(昭和21年)9月に三重県上野市(現在の伊賀市)に引き揚げた。上野市立白鳳幼稚園・上野市立西小学校・上野市立崇広中学校を経て、東京都へ父と引越して東京都立立川高等学校・慶應義塾大学経済学部を卒業した。 日本社会党の衆議院議員だった父の中井徳次郎の秘書を務めた。社会党右派に所属して穏健的な民主社会主義政党を目指していた父の徳次郎が、マルクス主義政党を目指した社会党左派中心の執行部に嫌われた事から、左派の執行部は旧三重1区に左派の対立候補(第31回衆議院議員総選挙で福島重之を樹立、第32回衆議院議員総選挙で田口一男)を擁立して、社会党右派の中井徳次郎と社会党左派の思想対立が激化した。父徳次郎が出馬を断念した事に伴い、父子で日本社会党を離党、父の穏健的な民主社会主義思想の後継者となった。 1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙において日本社会党は社会党左派の田口一男を公認して、中井は日本社会党の公認が得られずに無所属候補として立候補したが落選した。選挙戦では民社党の支援を受けた。その後民社党に入党、1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に中選挙区の旧三重1区より立候補し、34歳で初当選した。 初当選した選挙では、民社党からは青山丘・大内啓伍・神田厚・中野寛成・米沢隆も中井と同じく初当選した。名張市出身の開業医が父中井徳次郎の有力後援者であった事からその娘と結婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中井洽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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