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中原 光信(なかはら みつのぶ、1922年 - 2003年7月12日〔)は、日本の陸軍軍人。法政大学剣道部主将。階級は陸軍少尉、情報担当将校。終戦時は陸軍独立混成第34旅団所属。ベトナム独立戦争に参加。クァンガイ陸軍中学教官。ベトナム名はグエン・ミン・ゴック(Nguyen Minh Ngoc/阮明玉)。日越貿易会会長を務めた〔。愛媛県出身〔中原光信氏死去 元日越貿易会会長 47News 2003/07/13〕。 == 人物 == 1944年に法政大学を繰り上げ卒業で陸軍に入隊し、熊本陸軍予備士官学校を経てフエに着任する。1945年7月からベトミンと連絡を取り始める。日本敗戦の直後には井川省少佐の「緊急事態が生じたということで、武器庫に施錠せずに至急撤収せよという旅団司令部命令を伝えろ」との指示を受けて、保安部隊を司令部に呼び戻し、明号作戦で仏印軍から押収し、フエの旧王宮で厳重に保管されていた武器保管所を無人化することでベトミンに武器を提供した。 1946年1月頃にダナン西方の保養地バナー高原にある旧・大日本帝国陸軍将兵自主キャンプを脱走してベトミンの車でダナンへ行き、ベトミンの臨時行政機関でマラリア療養のために休養した後、ビンディンで井川少佐と合流する。脱走日には、下士官約十人から「ベトミンに参加するつもりなら同行させてほしい」と懇願されるが、彼らの帰国及び将来を慮って拒絶する。しかし、独立混成第34旅団からは後に下士官達が脱走してベトミンに参加している。 その後は軍事訓練に専念していたが、4月上旬に海岸線を北上中の仏軍を阻止するために戦術指導のためにトイホアに派遣された。任務を終えて第5戦区司令部に帰ってみると、井川少佐が戦術指導のためベトミンを率いて中部高原の要衝プレイクへ出撃しようとしており、中原は同行許可を求めたが井川はこれを許さなかった。井川はブレイクへの途上で仏軍の待ち伏せに遭い戦死した。 1946年4月、DRV(ベトナム民主共和国、1945年9月2日独立宣言)南部抗戦委員会主席グエン・ソン将軍によって、新設準備中のクァンガイ陸軍中学(士官学校)教官に任命された。クァンガイ陸軍中学では第2大隊の教官を務めた。この学校の設立の経緯については、中原少尉が井川少佐の遺志に沿いグエン・ソンに進言して設立されたともされている。同年、グエン・ソンが南中部の前線における作戦指導に行くとき中原少尉は同行し、攻撃方法について幾つか進言し、2千人近くのフランス軍を殲滅し何千挺もの銃を入手することに成功する。 1947年には、ベトミン軍はナムディン攻囲戦で分厚い壁で囲まれた紡績工場と仏軍キャンプの間に挟まれて多くの死傷者を出し、退却を余儀なくされた。中原少尉は連隊司令部に野砲直射を進言し、自ら作戦を指揮して仏軍を苦しめた。その後、中原少尉はボー・グエン・ザップ総司令官直属の軍事参議官に任命され軍中枢の作戦会議にも出席していた。DRVハノイ防衛軍が仏軍の包囲作戦で窮地に陥った時、夜間の渡河脱出をボー・グエン・ザップに提案して成功させている。 1948年4月、ドンヒーのレ・ティエット・フン(:vi:Le Thiet Hung)が校長を務めるチャン・クォック・トアン陸軍中学の教官に他の日本人達と共に就任する。 1951年から1954年にかけて日本人数人と共に参謀本部軍事訓練局で活動し、前線で用いなければならなかった戦術の問題として、飛行機に対する射撃方法や軍事拠点の確実な攻め方についてベトナム人幹部達と共に研究する。 中原少尉はベトナム民主共和国政府により第1級戦勝勲章と第3級軍功勲章を授与される。 日本に帰国後は、日越の友好商社などからなる日本ベトナム貿易会を組織し、ホンガイ炭の輸入などでベトナム戦争時のDRVを支援するなど、その後も日越経済交流に尽力した。 1990年にベトナム外相グエン・コ・タクの訪日に際して設けられた公式晩餐会に招かれ、軍総司令部においてグエン・ザップ将軍の秘書を務めていたタク外相から「この席に昔ジャングルで一緒に戦ったグエン・ミン・ゴックさんがいます。私達は総司令部で一緒にいたが、ヴォ・グエン・ザップ将軍はよくゴックさんの意見を参考にしていました」と紹介を受けた。〔ドキュメントヴェトナム戦争全史、岩波現代文庫、小倉貞男 、〕 1996年、ハノイの陸軍ホテルで開かれた勲章再授与祝賀会にはクァンガイ陸軍中学で中原の同僚教官であった谷本喜久男と加茂徳治もに出席している。クァンガイ陸軍中学の卒業生ホー・デー中将、ファン・タイン少将ら陸軍上級幹部多数も列席している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中原光信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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