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中原 多代(なかはら たよ、1911年(明治44年)5月 - )〔少なくとも、1999年(88歳)時点では生存している。『治る.com 声に力がない 』2010年3月4日閲覧、による。〕は、日本の声楽家・歌手、発声法の研究者。西洋音楽・邦楽両方の歌唱にわたる研究・実践を行い、その活動が「歌詞を大切にしている声楽家」と評されている〔大松幾子・菊永謙「声の文化 中原多代」大松幾子 編『対談 朗読文化』かど創房,p40〕。また、日本人の持つ特性を活かす発声法を科学的に研究し、それを生かしたボイストレーニングも行っている。 == 略歴 == 1911年5月 横浜に生まれる。 幼少の頃から邦楽の稽古に励む一方で、家には大型オルガン・アップライトピアノ・電蓄があった。また、叔父がバイオリンを弾き、叔母が賛美歌を歌う一方、母は箏・三味線と、邦楽・西洋音楽の両方から影響を受けた。 1923年の関東大震災の際、神奈川県立第一高等女学校(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校)から文化学院に転校後、同校卒業。日本女子大学家政科を一年で中退。1930年~1931年頃日本音楽学校に入学し、イタリア・カーピ歌劇団のアッテリオ・ベレッティにベルカント唱法の指導を受ける〔中原多代『声とからだ ~声の文化「んとN」』ヤマハミュージックメディア,p29〕ものの、中退。在学中、藤原歌劇団の母体となった「ヴォーカルフォア」に入団した他、「東京セレネーダーズ」というグループを作ってステージ・ラジオの仕事をしていたことに対し、校長の反対を受けてのことであった。 その後、谷田部勁吉が主任であった松竹歌劇団の声楽専科でバレエ・ジャズダンス・タップダンス・日本舞踊・演劇の訓練を受け、東宝劇団に移籍。歌舞伎・新劇・現在で言うミュージカル(当時、ミュージカルという言葉は、まだ日本で使われていなかった。)などに出演。軽音楽(ロックではない。)や演歌も歌う。1939年、オペレッタ「ショーボート」を自費公演したことは「何らかの記録にのこっているようである」〔中原多代『声とからだ ~声の文化「んとN」』ヤマハミュージックメディア,p86〕。 1943年5月、山田耕筰の媒酌で、ピアニスト中原高次と結婚。 戦後、杵屋正邦の下で、邦楽全般の研究を続ける。1951年から、毎年~隔年のペースで「日本のうた」リサイタルを開催(12回)〔これに対して、朗読指導者・研究者である大松幾子は、「日本語を大切にという深い想いがあって意義がありますね。」と評している。大松幾子・菊永謙「声の文化 中原多代」大松幾子 編『対談 朗読文化』かど創房,p49、より。〕。ピアノ伴奏による日本歌曲と、邦楽器伴奏による邦楽家の作品などを発表した。虎の門音楽舞踊学校を設立し、1957年に、ミュージカル「長靴を履いた猫」(台本も執筆)を日本青年館で公演。1958年ごろからは、NHKラジオ「歌のおばさん」「歌のおじさん」「お話し出て来い」「お茶のひととき」などの台本を担当。 1975年ごろから、昭和大学医学部の猪口清一郎の下で、本格的に生理解剖学・人類学の研究を始め、現在に至る。 アッテリオ・ベレッティ、下八川圭祐、城田又兵衛、原信子に声楽を師事。杵屋正邦に邦楽を師事。日本声楽発声学会、日本民族音楽学会会員。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中原多代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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