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中原師遠[なかはら の もろとお] 中原 師遠(なかはら の もろとお、延久2年11月23日(1070年12月28日) - 大治5年8月7日(1130年9月11日))は、平安時代後期の貴族。大外記・中原師平の子。官位は正五位上・大外記。 == 経歴 == 父・中原師平に続いて明経得業生から明経試に及第し、寛治2年(1088年)権少外記に任ぜられる。寛治4年(1090年)には中原氏の祖である中原有象以来の伝来の官職である大外記に任ぜられ、従五位下に叙爵。 寛治5年(1091年)父・師平の明経博士辞任に伴い直講に任ぜられると、寛治7年(1093年)に天文密奏宣旨を受け、初めて釈奠の座主役を務めて『孝経』を講ずるなど、儒学者としての経歴を重ね、承徳2年(1098年)には直講の功労により従五位上に叙せられている。またこの間、永長2年(1097年)に関白内大臣・藤原師通家の文殿に任ぜられているが、承徳3年(1099年)に師通が薨去した際に暇の上申なく服喪のために籠居したことから、短期間ながら勅勘を蒙っている。 康和3年(1101年)再び大外記に任ぜられると、没する直前の大治5年(1130年)まで、白河院政期から鳥羽院政期までのほぼ30年に亘ってこれを務める。この間、朝廷の官人として主計権助・主計頭を、儒学者として直講・助教・明経博士を、さらには摂関家(藤原忠実・忠通)の政所別当も務めている。なお、天永2年(1111年)に記録荘園券契所が再設置された際にはその寄人に任ぜられている。一方で、長治元年(1104年)正五位下、永久元年(1113年)正五位上に昇進した。 大治5年(1130年)正月に大外記から隠岐守に転じるが、同年8月6日卒去。享年61。最終官位は隠岐守正五位上兼修理左宮城判官主殿頭図書頭明経博士。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中原師遠」の詳細全文を読む
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