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中国の仏教(ちゅうごくのぶっきょう)では、中国地域の仏教の歴史について詳述する。 == 後漢(伝来) == 中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。 伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある。 また、1990年代以降、この時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。 また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。 この時代の仏教書としては『牟氏理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の経典や禅観に関する経典を訳した。 また、桓帝の時代に洛陽に入った大月氏出身の支婁迦讖は、霊帝の時代に大乗経典の『道行般若経』『首楞厳経』『般舟三昧経』を訳した。『般舟三昧経』は光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳された(『道行般若経』は同年10月18日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中国の仏教」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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