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中国の大返し : ウィキペディア日本語版
中国大返し[ちゅうごくおおがえし]
中国大返し(ちゅうごくおおがえし)または備中大返し(びっちゅうおおがえし)〔森本繁『真説・太閤記』(1989)ISBN 4404016360 、佐藤雅美『樓岸夢一定 蜂須賀小六』(2001)ISBN 4062732092 、羽生道英『藤堂高虎 秀吉と家康が惚れ込んだ男』(2005)ISBN 4569663001、川口素生『戦国名軍師列伝』(2006)ISBN 4569666256、などにみられる表現。〕は、天正10年6月西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀討つために向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団移動のこと。備中高松城岡山県岡山市北区)から山城山崎京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。
* 文中の( )内の年は西暦ユリウス暦(1582年10月15日以降はグレゴリオ暦)、月日は全て和暦宣明暦の長暦による。
== 高松城攻めと本能寺の変 ==

=== 備中高松城攻め ===

主君織田信長より中国攻めの総司令官に任じられていた羽柴秀吉は天正10年(1582年)3月、播磨姫路城兵庫県姫路市)より備前に入り、3月17日常山城岡山市南区)を攻め〔常山城の戦いは「御次公」と呼ばれた信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝初陣となった。〕、4月中旬には備前岡山城(当時は石山城)の宇喜多秀家の軍勢と合流、総勢3万の兵力となって〔『真説歴史の道第8号』(2010)p.4〕、備中日畑城(日幡城、岡山県倉敷市)、備前冠山城(岡山市北区)、備前庭瀬城(岡山市北区)、備前加茂城(岡山市北区)など、備前・備中における毛利方の諸城を陥落させていった〔市川(1996)pp.102-104 〕。一方で秀吉は動揺する毛利水軍への調略もおこない〔天正10年3月17日付の蜂須賀正勝黒田孝高連署の書状によれば、秀吉は、隆景の重臣で小早川水軍の総帥格であった乃美氏に対して、乃美氏が毛利家より離反した場合、恩賞として安芸周防長門及び黄金500枚を与える旨を伝えている。藤田(2003)p.152〕、4月14日には毛利水軍に帰属していた伊予来島氏と村上(能島)氏を帰順させている。
備中高松城(岡山市北区)の城主清水宗治は、織田・毛利両陣営双方から引き抜きを受けたが、織田氏からの誘いを断り毛利氏に留まった〔藤田達生は、清水氏の本来の本拠は、備中幸山城(岡山県総社市清音)であり、水攻めの行われた高松には大きな利害の無かった勢力であるとしている。藤田(2003)pp.150-151〕。秀吉は、僅か3,000の兵員しか持たない高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅する作戦を採った。しかし、秀吉は苦戦を余儀なくされた。そこで、秀吉は主君信長に援軍を要請し、信長もまた家臣明智光秀を派遣することを伝えたが、同時に寸暇おしまず高松城攻略に専心するよう秀吉に命じた〔『真説歴史の道第8号』(2010)p.5〕。
勇将清水宗治の守る高松城を攻めあぐねた秀吉は、5月7日、水攻めにすることを決した。高松城は、三方が深い、一方が広い水堀となっており、要害であった〔安田(1984)p.184〕。このとき水攻めを発案したのは、一説には軍師黒田孝高(如水)ではないかともいわれている〔〔中村(2003)pp.102-105〕〔『クロニック戦国全史』(1995)p.471〕。城の周囲に築かれた堤防は、5月8日に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、19日に終えた。作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川の流れを引き込もうというものであった。
高松城の水攻めは「空前」〔安井(1996)p.16〕の「奇策」〔であり、秀吉の特異な戦法として世に知られる。秀吉は無益な人的損耗を避けるため、綿密な地勢研究の結果に基づいてこの策に決定、兵や人民に高額な経済的報酬を与えることによって、全長4 km弱におよぶ堤防をわずか12日間で築成したのである〔〔。
こうして秀吉は、宗治救援に駆けつけた吉川元春小早川隆景ら毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの梅雨で城の周囲は浸水し、高松城は「陸の孤島」となって毛利軍は手が出せない状況となった。秀吉はこの時、毛利の陣営に「近く総大将の織田信長公が大軍を率いて秀吉の応援に駆けつけるらしい」という風説を流したともいわれている〔。
信長の親征となれば、武田勝頼のように、一族悉く滅ぼされ獄門首になりかねず、毛利軍は早期和睦を望んでいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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