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中国の青銅器[ちゅうごくのせいどうき]
本項中国の青銅器(ちゅうごくのせいどうき)では、中国の古代文明を象徴する遺物である〔(廣川、2009)、p.53 〕青銅器(銅と錫の合金で作られた器物)について概観する。複雑な器形と文様、高度な鋳造技術を特色とする中国の古代青銅器は世界各地で愛好され、中国国内のみならず、欧米や日本など国外の美術館にも多数収蔵されている〔(伊藤、1982)、p. 102〕。 == 中国青銅器の製作年代 == 銅は、人類がもっとも古くから利用しはじめた金属である〔(飯島、1982)、p. 126〕。19世紀デンマークの考古学者クリスチャン・トムセンは、人類の先史文明を「石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」という3つの時期に区分することを提唱した。これは、ある文明における青銅器や鉄器の出現を、当該文明が新たな段階に入ったことの指標とみなす考え方である。青銅とは銅を主成分として錫(および鉛)を含む合金を指すが、青銅器の使用以前に錫を含まない自然銅を使用していた文化を銅器時代または金石併用時代と称する場合もある。古代のエジプトや西アジアの文明は、おおむね紀元前4000年紀の半ばには青銅器時代に入っているが、中国文明が青銅器時代に入ったのはエジプトや西アジアに比べてかなり遅く、紀元前2000年紀前半の二里頭文化期からである〔(馬、1991)、p.30〕。それ以前、新石器文化に属する甘粛省・青海省の斉家文化(紀元前2200年頃 - 紀元前1600年頃〔)でも銅製の刀子、錐、鑿(のみ)などの小型の道具がすでに製作されていたが、この文化は金石併用段階とみられる〔(馬、1991)、p.27〕。なお、斉家文化の銅製品には青銅のものと紅銅(純銅)のものがあり、青銅器時代に先立って純銅のみを使用していた「銅器時代」の存在は中国では確認できない〔。 中国が金石併用文化から青銅器文化の段階に入るのは、河南省偃師市の二里頭遺跡を標識遺跡とする二里頭上層文化期(二里頭3・4期)である。この文化の実年代は論者によって異なり、正確には決めがたいが、おおよそ紀元前1700年頃と考えられている。この二里頭上層文化の遺物については、これを中国最古の夏王朝の文化とみなす見方と、殷(商)の初期に属するとする見方とがあるが、いずれにしてもこの文化が中国最古の青銅器文化とみなされている〔(飯島、1982)、p. 127〕。 :(時代と王朝名表記について)本項では、二里頭文化期の遺物については、「夏」「殷」の王朝名は用いず、「二里頭文化期」と表記する。「殷」は『史記』で用いられる表記で、現代中国語では通常「商」(または「商殷」)と表記されるが、本項では混乱を避けるため、日本語圏で一般的な「殷」の表記に統一することとする。 美術品として評価の高い殷周時代の青銅容器は、単なる酒器や食器ではなく、宗教的儀礼のための祭器であり、後には器の所有者の地位や権威を象徴する政治的・社会的意味も担った。中国の青銅器時代は殷(紀元前1600年頃 - 紀元前1050年頃)から西周時代(紀元前1050年頃 - 紀元前771年)を経て、春秋時代(紀元前770年 - 紀元前453年/403年)まで継続し、春秋時代と次の戦国時代の交代期あたりに鉄器時代に入ったとみなされている〔(馬、1991)、p.119〕。青銅製の器物はその後も秦・漢時代までは引き続き製作されるが、中国を統一した秦は、周の制度を徹底的に否定したため、従来のような礼器の製作は終わり、青銅で作られる器物は燭台、香炉といった日常生活用品が主体となった。それもやがて衰退していくが、例外的に作り続けられたのは銅鏡である。青銅製の鏡は他に適当な代替材料がなかったため、18世紀に至るまで作り続けられた〔(馬、1991)、p.135〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中国の青銅器」の詳細全文を読む
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