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中国国分(ちゅうごくくにわけ)とは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と毛利輝元の同盟関係が成立した天正11年(1583年)以降、秀吉政権によっておこなわれた、中国地方に対する大名など諸領主への領土配分のことである。 : * 文中の( )の年は西暦、ユリウス暦(1582年10月15日以降はグレゴリオ暦)、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。 == 中国地方の平定 == 天正5年(1577年)以降、羽柴秀吉は主君織田信長に命じられて毛利輝元の勢力圏である中国地方に対する進攻戦を展開した。これが中国攻めである。戦争は6年におよび、秀吉が備中高松城の戦いの最中にあった天正10年6月までつづいたが、同月2日(ユリウス暦1582年6月21日)の織田信長の突然の横死(本能寺の変)によって中断された。 秀吉は、主君の仇明智光秀を討つため、ただちに毛利氏との講和を取りまとめ、京に向けて取って返した約10日間の軍団大移動(中国大返し)ののち6月13日山崎の戦いで光秀を討ち、6月27日(ユリウス暦1582年7月16日)の清洲会議でも他の重臣や一族に対して優位に立った。 :なお、本能寺の変後の和睦条件は、当初織田氏方が要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲の5か国割譲に代えて、備後・出雲をのぞく備中・美作・伯耆の3か国の割譲と高松城(岡山県岡山市北区)の城主清水宗治の切腹というものであった。 この会議の結果、柴田勝家は秀吉の本拠である近江国長浜を新たに得たが、秀吉は播磨国のほか、山城国、河内国、そして光秀の旧領であった丹波国を獲得した〔熱田『天下一統』(1992)p.201〕。京都を擁する山城を領した効果は大きく、7月11日(ユリウス暦1582年7月30日)に京都山科の本圀寺に入った秀吉を公家たちは次々に訪問した。また、7月17日には山崎戦のあった天王山山頂に山崎城の普請を開始した秀吉に対して、安国寺恵瓊が早々に毛利輝元と吉川元春の使者として訪れている〔熱田『天下一統』(1992)p.202-203〕。毛利氏側としては領土交渉を少しでも有利に進めたかったのであろうと考えられる〔。 天正11年(1583年)3月、対立していた秀吉と柴田勝家は近江国賤ヶ岳を主戦場として戦った(賤ヶ岳の戦い)。その際、毛利輝元は、秀吉・勝家の双方から同盟を申し込まれたが、中立を保った。なお、このとき足利義昭は、秀吉・勝家の両陣営にはたらきかけて京都復帰を図ろうとしている〔熱田『天下一統』(1992)p.204〕。 秀吉は、賤ヶ岳戦勝後の同年5月15日(グレゴリウス暦1583年7月4日)付の近江坂本(滋賀県大津市)からの手紙で、東海・北陸地方での戦果と旧武田氏領をのぞく信長の旧版図が秀吉の支配下にはいったことを、輝元の叔父小早川隆景に伝え、輝元がもし自分に従う覚悟をするなら、「日本の治、頼朝以来これにはいかでか増すべく候や」と述べ、信長から自立した独自の政権づくりによって天下一統を推し進めていく抱負を示した〔池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.137〕。そして、新しい天下の拠点として9月には大坂城の築城を開始した。 秀吉は、領国割譲に関する毛利氏側の要請をいれて伯耆国西部および備中国の高梁川以西を毛利領として画定した。天正11年8月、毛利氏もこれをいったん受諾して人質として小早川元総(毛利元就九男毛利秀包、兄小早川隆景の養子)と吉川経言(吉川元春三男吉川広家)を秀吉のもとに送ったことで境相論は解決の目途が立ち、これをもとに中国国分がなされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中国国分」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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