|
中垣 國男(なかがき くにお、1911年6月24日 – 1987年4月2日)は、昭和期の政治家。第16代法務大臣。 == 来歴・人物 == 鹿児島県生まれ。鹿児島県立水産学校を卒業、東洋大学中退。愛知県横須賀村(現・西尾市吉良町)農業会、同県幡豆郡農業会の職員を経て、幡豆食品(株)支配人、愛知トマト製造(株)(カゴメの前身企業の一つ)常務取締役などを歴任する。 1947年、第23回衆議院議員総選挙に民主党から旧愛知4区にて立候補し当選する(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・松野頼三・倉石忠雄・荒木万寿夫・石田博英・原田憲・園田直・櫻内義雄・根本龍太郎・佐々木秀世・中村寅太など)。以後当選9回。1949年に吉田茂政権への対応を巡って党内が2分されると、中垣は犬養健・保利茂・小坂善太郎らとともに「連立派」に与し、翌1950年には自由党に合流する。 1952年・1953年の総選挙では、2度にわたり自身の立候補を取り止めて、公職追放を解除された小笠原三九郎の選挙事務長を務めた。1955年の第27回衆議院議員総選挙で中央政界に復帰。自由民主党では緒方派→石井派に所属した。厚生政務次官、自民党副幹事長等を経て、1962年第2次池田内閣第2次改造内閣で法務大臣として入閣する。1976年に政界を引退。地盤は稲垣実男が継いだ。 死刑推進派とされており、法務大臣在任中に33名の死刑囚の死刑執行命令に署名した。この中には藤本事件、小松川事件、神戸洋服商殺人事件(孫斗八)の死刑囚3人も含まれていた。 灘尾弘吉・田中伊三次・坂田道太とともに石井派四天王と称され、とりわけ中垣は世話役的な存在として、他のメンバーが苦手とする他派閥との折衝等で活躍した。1981年勲一等瑞宝章受章。 1987年4月2日、心不全のため死去。享年75。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中垣國男」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kunio Nakagaki 」があります。 スポンサード リンク
|