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中部リトアニア共和国(、、)あるいは単に中部リトアニア(, 、)は、1920年代に東ヨーロッパに存在していた国家(ただし国際承認はされていなかった)。日本語では中央リトアニア共和国などとも称される〔例えば、鈴木, 2000、カセカンプ, 2014. p. 176.〕。 中部リトアニアは1920年、ジェリコフスキ将軍率いるポーランド軍第1リトアニア=ベラルーシ歩兵師団がヴィルノに侵攻したことにより建国された(この侵攻はポーランド空軍や騎兵隊、砲兵隊なども援護していた)〔Čepėnas, 1986.〕。ヴィルノはかつてのリトアニア大公国の首都(リトアニア語でヴィリニュス)であったことから独立を果たしてすぐのリトアニア共和国が自国の領土であると主張しており、そのため中部リトアニアはポーランドとリトアニアの緩衝国として18ヶ月間存続していた〔Rauch, 1974.〕。1922年1月8日、中部リトアニアで選挙が行われ、数でリトアニア住民を上回るポーランド人が勝利を果たし、その結果ポーランドへの編入が決定、4月20日にポーランド議会がそれを承認した〔鈴木, 2000. p. 73.〕。 ポーランドが中部リトアニアを編入したことによってできた新たなポーランド=リトアニア間の国境は、日本を含む協商国〔Phipps et al., 1923.〕〔League of Nations, 1923. pp. 261-265.〕や国際連盟〔Miniotaitė, 1999. p. 21.〕からは承認されていたが、リトアニアはこれを認めなかった〔Lithuanian Information Bureau, 1922. pp. 24-25.〕。1931年、ハーグの国際法廷は、ポーランドによる編入の経緯は(満州国の際と同様に)国際法に反すると判断しているものの、編入自体は国際的に承認されている〔(注:ポーランドは満州国をいち早く承認している)。なお、ポーランドとリトアニアの国交はその後1938年まで樹立されないままであった。 == 法的地位 == 中部リトアニアはポーランドからの支援によって成り立っていたと見られている。歴史家の中には、中部リトアニアは要件を満たしていない「国家」であったとする者〔例えば、Snyder, 2003. p.64.; Shandler, 2002. p. xlvii; Kantautas and Kantautas, 1975 p. 307.; Romanucci-Ross, Vos, and Tsuda, 2006. p. 75、など。〕や、ポーランドの「傀儡国家」であったとする者〔Lerski, Wróbel, and Kozicki, 1996. p. 309.〕〔Royal Institute of International Affairs. International Affairs.Vol.36, No. 3, 1960 p. 354.〕、あるいは「傀儡共和国」〔Kolarz, 1946. p. 109.〕、「いわゆる国家」〔Polish Institute of Arts and Sciences of America.The Polish Review.1956. p. 67.〕、「人工的に作られたもの」〔Eidintas, 1999. p. 40.〕、「偽の」国家とまで表現する者もいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中部リトアニア共和国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Republic of Central Lithuania 」があります。 スポンサード リンク
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