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中尾 敏之(なかお としゆき、1974年10月24日 - )は、将棋棋士。廣津久雄九段門下。棋士番号は230。静岡県富士市出身。 == 棋歴 == 幼稚園時代から父に将棋を教わり、その後、日本将棋連盟富士支部の道場に連れられていくようになる〔「将棋世界」2000年1月号付録〕。しかし、すぐには夢中にはならず、アマチュア初段の父に勝てるようになったのさえ小学校高学年の頃であった〔。 奨励会への入会は、中学3年の頃の1989年。三段リーグに参戦してから5期目(2年半)の1998年度前期リーグで、出だし2勝5敗から粘って12勝6敗として2位に食い込み、1998年10月1日付で四段昇段(プロ入り)をする。 プロとして最初に迎えた第12期(1998 - 1999年)竜王戦では6組準決勝に進出。準決勝か昇級者決定戦(敗者復活)で勝てば、1年目で即5組昇級となるところであったが、どちらでも敗れて昇級を逃した。 第16期(2002 - 2003年)竜王戦6組ランキング戦で準決勝敗退後、昇級者決定戦で熊坂学に勝ち5組昇級。続く第17期でも5組ランキング戦で準決勝敗退後、昇級者決定戦で伊奈祐介に勝ち4組昇級。なお、当時は竜王ランキング戦連続2回昇級の昇段規定がまだなかったため、この時には五段昇段に至らなかった。 順位戦での最高成績は、第60期(2001年度)C級2組順位戦の8勝2敗(C級1組昇級には至らず)である。 第66期(2007年度)C級2組順位戦で降級点が累積3個となり、規定によりフリークラスに降級し、初参加から9期、33歳の若さで順位戦参加資格を失ってしまった。これは第46期(1987年度)に現行制度が始まって以来、熊坂学(3期・順位戦のシステム上最速)、本間博(7期)に次ぐ3番目の早さ〔フリークラス宣言により自ら転出した金沢孝史(6期)・櫛田陽一(8期)は除く。〕〔後に藤倉勇樹も本間と同様に7期で陥落。これにより中尾は「史上4番目の速さ」に繰り下がった。〕であった。 第34期(2008年度)棋王戦で予選決勝に進出し、全公式棋戦を通して自身初の本戦トーナメント入りまであと1勝と迫ったが、阿久津主税に敗れる。 第62期(2012年度)NHK杯将棋トーナメントで予選を勝ち抜き本戦出場。1回戦で松尾歩に敗れる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中尾敏之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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