|
若孜 浩気(わかつとむ ひろき、1973年2月13日 - )は、和歌山県和歌山市出身(出生地は東京都中野区)で松ヶ根部屋所属の元大相撲力士。本名は、中尾 浩規(なかお ひろき)。身長172cm、体重169kg。趣味はボウリング。最高位は東前頭12枚目(2001年5月場所)。得意技は突き、押し、血液型はO型。 == 来歴 == 元・学生横綱で元レスリング・メルボルンオリンピック代表の中尾三郎の長男として生まれる。小学校時代に相撲を始め、明治大学付属中野中学校入学後に本格的に相撲に取り組んだ。同級生には花田光司(後の横綱貴乃花)がいた。明治大学付属中野高等学校へ進むと、インターハイで団体戦・個人戦で日本一に輝いた。個人戦では出島を破って優勝している。高校卒業後は大学相撲強豪の中央大学へ進学し、同僚の玉春日や出島らと共に学生選手権団体戦優勝や個人戦3位の成績を記録した。 大学卒業後は日本通運に入社したが、相撲界への未練が絶ち切れず半年で退社し、年寄・9代松ヶ根(元大関・若嶋津)が師匠を務める松ヶ根部屋に入門し、身長172cmであったが幕下付出の新弟子検査体格基準が撤廃されたため新弟子検査に合格し、1995年11月場所において幕下付出で初土俵を踏んだ。1999年3月場所に新十両へ昇進し、同時に四股名を本名の「中尾」から「若孜」へと改名した。その3月場所では6勝9敗と負け越し、翌5月場所に幕下へ陥落した。その後は幕下上位に在位し続け、2000年9月場所に十両へ復帰して以降は十両に定着し、2001年3月場所には東十両3枚目の位置で10勝5敗の成績を挙げて初の十両優勝を飾り、翌5月場所に新入幕を果たした。幕内には3場所在位したものの、膝の怪我などの影響により1場所も勝ち越すことはできず、同年11月場所には十両へ陥落し、その11月場所でも2勝13敗と大敗してしまい、翌2002年1月場所では幕下へ陥落した。 2002年9月場所には四股名を再び本名である「中尾」へと戻し、一時は三段目まで陥落したものの、徐々に番付を戻していき、2003年3月場所では東幕下11枚目の位置で7戦全勝の成績を挙げて2回目の幕下優勝を果たして、内規により翌5月場所において3回目の十両昇進を果たした。しかし、西十両5枚目の位置で迎えた2004年3月場所で4日目に右膝の半月板を損傷して翌5日目から休場し、結果的に5敗10休という成績となってしまい、翌5月場所には一気に幕下へと陥落してしまった。その後も十両復帰を目指して怪我と戦いながら幕下で相撲を取り続け、2005年7月場所には3回目の幕下優勝を果たした。2006年3月場所には再び「若孜」という四股名へと改名したものの、同年7月場所では初日から全休し、その7月場所の千秋楽である同年7月23日に引退届を提出して現役を引退した。同年9月2日に東京都港区の日本通運本社で断髪式を行った。 引退後は、現役時から足繁く通っていたという東京都中野区にあるジンギスカン店「ジンギスカンゆきだるま中野店」のオーナーとなった。2009年3月には千葉県市川市に実弟が店長を務める支店「ジンギスカンゆきだるま本八幡部屋」を、2012年6月には東京都墨田区両国に支店「ジンギスカンゆきだるま両国部屋」を開店し、さらに2014年6月には東京都江東区亀戸に元十両・玉ノ国が店長を務める支店「ジンギスカンゆきだるま中野部屋一門 亀戸部屋」を開店した。また、現在は週末に父の母校である慶應義塾大学の相撲部でコーチとして指導を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若孜浩気」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wakatsutomu Hiroki 」があります。 スポンサード リンク
|