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中山兼宗 : ウィキペディア日本語版
中山兼宗[なかやま かねむね]
中山 兼宗(なかやま かねむね、長寛元年(1163年) - 仁治3年9月3日1242年9月28日))は平安時代公卿歌人内大臣中山忠親長男。母は権右中弁藤原光房女。正二位按察使権大納言
== 経歴 ==
仁安2年(1167年)叙爵。侍従左近少将右近中将阿波介伊予権介播磨権介備中権介を歴任。建久4年(1193年蔵人頭に補任され、同6年参議に任ぜられ、権大納言を経て建暦元年(1211年正二位大納言に至った。議政官として、大嘗会御禊次第司御後長官・加賀権守中宮九条立子)大夫・按察使などを兼帯。建保6年(1218年)息子の忠定参議に申請して自らは大納言を辞すが、2年後の承久2年には「子強好交衆、又増不孝耳」(『明月記寛喜元年4月9日条)のため忠定を解官させており、父子の確執は深まり、天福元年(1233年)には三浦義村藤原定家の調停を受けるまでに騒ぎは大きくなった。嘉禎元年(1235年大隅国知行国主となる。仁治3年(1242年)9月3日、80歳で薨去した。
歌人としては『千載和歌集』(歌番号328)に1首入る他、『新古今和歌集』以後の勅撰和歌集に20首入集し、建久2年の若宮社歌合、六百番歌合千五百番歌合、経房家歌合などにも出詠している。『井蛙抄』巻六によれば、定家は「歌は兼宗大納言、束帯にて陣座に着て。公事をこなひたる様によむべし」と語ったと伝えられる。また治承3年(1179年)正月には高倉天皇の朝勤行幸の御遊に伺候し、初めての役を務めて以来、建久 5年には楽所別当にも補され、種々の和歌会御遊などでも琵琶の役を担当したことが知られる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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