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中山勝時[なかやま かつとき] 中山 勝時(なかやま かつとき、?-天正10年6月2日(1582年6月21日)は戦国時代の武将。 通称は五郎左衛門。刑部大輔もしくは民部大輔を名乗る。妻は水野忠政の娘。 == 略歴 == 中山勝時は中山重時の嫡男で水野氏(小河水野氏)の家臣であった。中山氏は天文12年(1543年)に水野信元が現在の愛知県阿久比町宮津の新海氏を下し、その出城で榊原主殿が守る尾張国の岩滑城(半田市岩滑中町)を落とす〔「半田町史」(1926年)45項および「知多郡史」上巻165項において提示された説。新海家所蔵の家伝文書に拠るという。〕と、勝時は岩滑城の新しい城主となり、この地を領した。これ以前の中山氏は洞廻間(くけはざま:桶狭間)および北尾(現在の大府市北崎町)に住し〔「知多郡史」上巻172項。〕、法華の信者であったといわれている。ちなみに、桶狭間の戦い後、今川義元ら戦没者のための引導供養の大導師をつとめた、曹源寺(現豊明市大脇)二世の快翁龍喜和尚は、中山勝時の叔父あるいは大叔父にあたるという〔広島県福山市霞町の「泉龍寺」過去帳では、尾張国緒川村水野遠孫「中山又助」の次男となっている。勝時との関係は不明である。〕。 勝時は「張州雑志」など尾張において編纂された地誌には水野信元・水野重忠に仕え天正10年(1582年)本能寺の変の際に討死したと記されているが、「寛政譜」には勝時の死に関する記述はなく、ただ法名が「宗也」で「高野山に葬る」とされるのみである〔『寛政重修諸家譜』新訂12巻238項〕。また、天保14年(1843年)成立の「尾張志」では「京都二条にて信忠卿と共に討死」したとされている〔歴史図書社刊行本『寛政重修諸家譜』1969年。上巻789項〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中山勝時」の詳細全文を読む
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