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中山眞之亮 : ウィキペディア日本語版
中山眞之亮[なかやま しんのすけ]

中山 眞之亮(なかやま しんのすけ、慶応2年5月7日1866年6月19日) - 大正3年(1914年12月31日)は、天理教の初代真柱、および初代管長。別名・中山新治郎(なかやま しんじろう)。
== 来歴 ==
1866年(慶応2年)5月7日、大和国添上郡櫟本村(現天理市櫟本町)で鍛冶屋を生業とする梶本惣治郎と天理教教祖の中山みきの三女、はるの三男として生まれた。眞之亮の名前の由来は、母はるが懐妊中よりみきが「今度、おはるには、前川〔みきの生誕家〕の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの眞之亮やで」と語った事からきている。しかしながら、明治元年の奈良県令で亮、衛門の廃止が布令され、新治郎に改めた。本人は公的な書類などでは新治郎を用いたが、一生涯、通名として眞之亮を使い続けた〔。人々は、教長、本部長、管長などの役職名で呼ぶこともあった。
眞之介は明治13年(1880年)、15歳のときに中山家に入籍、養子となる。この際、天理教では神意に従ったとされている〔。教祖の息子中山秀司1881年明治14年)に死去した事をきっかけに、翌15年に17歳で中山家の戸主となる。この年、秀司の妻、まつゑも死去したために、「道のしんばしら」として、天理教初代管長に就任した〔明治政府の政令で、神道および仏教の一宗一派を管轄する長を「管長」と呼んだために、天理教でも一派独立後にこの呼称を用いた。天理教ではあくまで社会的な呼称だとしており、第二次世界大戦後に制定された「天理教教規」にてあらためて「真柱」を制定している。(〕となった。
中山家に入ってから死去するまでの眞之介の人生は、ちょうど天理教の教団草創期であり、波瀾万丈であった。この頃から警察の取り調べも熾烈になり、その対応に苦心した。こうしたことから度重なる警察の取締りを避けるために、教会設置公認運動の中心となって活動した。1888年(明治21年)には教祖没後1周年を機に予定した「教祖1年祭」が警察の圧力により中止させられるなど、様々な問題・事件が起き、その解決に精励しながら、神道本局、さらには認可が下りなかった東京府の許可を取り付け、7月には本部を現在の場所に移転し、同年11月30日には「天理教教会規約」を制定するなど、教会本部の礎を築いた。
しかしながら、急速に発展していく天理教に対して、明治政府は干渉するようになり、明治24年(1891年)4月6日に発布された内務省秘密訓令甲第12号により、再び厳しい弾圧を受け、さらには同年11月に神道本局よりも、以後三年間の新規教会設置の禁止をうける。眞之亮はその対応に苦慮した。これをうけて、教内でも一派独立の声が高まり、明治32年(1899年)5月に神道本局管長・稲葉正善より、一派独立の推薦もあって、独立運動を展開し度重なる不認可を経て、五回目の請願の際には自ら上京して奔走し、明治41年(1907年)11月の一派独立に尽力した。一派独立後は教会本部の環境整備につとめ、神殿の普請が進められ、大正3年に完了した。
みかぐらうた」本とその解釈本の公刊、「天理教教典(「明治教典」と呼ばれるもの。現在公刊されている天理教教典とは一部の内容が大きく異なる)」の公布、教義の整備、機関誌「みちのとも」創刊、男女平等の教えの実践を目的とした天理教婦人会の創立、海外への布教、天理教校天理高等学校開設などに力を注いだ。
1914年(大正3年)12月31日、49歳で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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