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中島 らも(なかじま らも、1952年4月3日 - 2004年7月26日〔中島 らも コトバンク - 典拠は小学館『デジタル大辞泉』、講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、小学館『日本大百科全書 ニッポニカ』〕)は、兵庫県尼崎市出身〔の小説家、劇作家、随筆家、広告プランナー、放送作家、ラジオパーソナリティ、ミュージシャン〔。本名は中島 裕之(なかじま ゆうし)〔。 広告代理店社員のコピーライター〔としてキャリアをスタートさせ、劇団・笑殺軍団リリパットアーミーを主宰し、俳優としても活動した〔ほか、自主的団体「全国まずいもの連盟」会長〔『とほほのほ』(双葉文庫)、東海林さだお『のほほん行進曲』(文春文庫)内の東海林とらもの対談など。美食を追求する風潮に抵抗し、飲食店として致命的な不味さの料理を愛でて批評する会。会員は発起人の本人のみであった。〕を自称した。 ペンネームの由来は、無声映画時代の剣戟俳優、羅門光三郎から〔『異人伝』(講談社文庫)pp.252-267 「中島らも略年譜」〕〔『あの娘は石ころ』(双葉文庫)p.140〕〔『逢う』(講談社文庫)、筒井康隆との対談より〕。活動当初は「羅門」「Ramon」「らもん」等のペンネームで雑誌に詩の投稿をしており、仲間内でも「らもん」を名乗っていたが「読者に名前を覚えてもらいやすいように」と1982年に「らも」に改名した〔。本稿では名の表記を、原則として「らも」で統一する。一男一女の父で、長女は作家の中島さなえ。 == 経歴 == === 生い立ち === 兵庫県尼崎市の国鉄(現JR西日本)立花駅近く〔『異人伝』(講談社文庫)pp.18-19〕で、2人兄弟の次男として生を受ける。後にらもは「躁鬱病は父親から、アル中は叔父から受け継いだ」と語っている。父親は開業歯科医をしていた〔『異人伝』(講談社文庫)pp.54-55〕。後のらもと同じく、父親も躁鬱病を患っていたといい、それに起因すると思われる奇行を度々繰り返していた(小学生だったらもに突然「裕ちゃん、今日は太陽が西から昇る」と言い出しそのまま入院する、自宅の庭にローラースケート場やプール〔を突発的に自作する、大量の砂糖を備蓄する、弓を始める、突然宗派を変えるなど)。また叔父(父の実兄)は酒販店を経営していたが失敗して「浮浪者同然〔」になり、泥酔して中島家に金の無心に来て断られては玄関先で暴れていたという。 尼崎市立七松小学校に入学〔。10歳の時、母親の勧めで神戸市立本山第一小学校に転入〔。スポーツ嫌いで、友人の野球の誘いを断って偉人伝を読むような子供だったという〔。また、将来は漫画家になりたいと思っていた〔『異人伝』(講談社文庫)pp.48-51〕。成長につれ、貸本を通じ、白土三平などの漫画や、山田風太郎などの小説に親しむ〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中島らも」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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