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中島 丈博(なかじま たけひろ、1935年11月12日 - )は、日本の脚本家、小説家、映画監督。京都府生まれ、高知県中村市(現・四万十市)育ち。 ==来歴== === 1935年-1989年 === 父は日本画家の中島敬朝。京都で生まれ、太平洋戦争の影響で1945年に 高知県中村市へ疎開。そこでプライバシーが筒抜けな地元住民の生活に衝撃を受け、それが作風にも影響を与えたと語っている。この頃のことは『野蛮な詩』(疎開後の小学生時代)、『郷愁』(中学時代)、『祭りの準備』(20代、上京まで)で小説・映画化している。1954年に高知県立中村高等学校を卒業。高知相互銀行に就職し三年ほど勤務する。その頃からシナリオを書き始め、映画雑誌のシナリオ懸賞に応募したりしていたが、シナリオ作家協会設立のシナリオ研究所(現:シナリオ講座)の発足を知ると退職して両親の猛反対を押し切り1957年に上京し、シナリオ研究所に第1期生として入所。 レストランのコック見習いやキャバレーのボーイをして働きながらシナリオ研究所修了後、仕事を6日休んで徹夜も辞さずに書いたシナリオを知り合いのツテで中平康監督に見せるが、「あなたにはおよそ向かない。クニに帰りなさい」と言われ、愕然とする〔『シナリオ無頼』(2010年、中公新書)〕。この作家修業時代のことは『独身送別会』としてドラマ化している。 しかし1959年に同人誌に発表したシナリオが脚本家の橋本忍に認められ(橋本が弟子を取ることは珍しく、今までに数人しかいない)、約一年間直接創作指導を受ける。同人誌に発表したシナリオが1961年に『南の風と波』の題で映画化され(橋本忍監督)で脚本家デビュー。 同年、日活脚本部と契約するが、当時の日活のアクション路線に馴染めず自身の企画がなかなか通らず、日活の業績悪化が進んだ1970年に解雇される。しかし 日活ロマンポルノ時代になると1972年から1977年までフリーの脚本家として神代辰巳、田中登、小沼勝、西村昭五郎などの監督作を13本執筆し、この頃に現在の昼ドラに続く「ドロドロ劇」の原型を作った。 その一方で1973年にATGで発表した『津軽じょんがら節』がキネマ旬報ベストテン1位、1975年発表の自伝的作品『祭りの準備』がキネマ旬報脚本賞、ベストテン2位(劇映画1位)と高く評価される。そして連続ドラマも執筆するようになり、1978年のドラマ人間模様『事件』(NHK)が高い評価を受けた(続編の執筆依頼もあったが辞退している〔『ドラマ』2003年10月号(映人社)〕)。翌1979年から大河ドラマの脚本を担当するようになり、大河ドラマでは最多となる4作品(『草燃える』〈1979年〉、『春の波涛』〈1985年〉、『炎立つ』〈1993年〉、『元禄繚乱』〈1999年〉)を執筆。 1988年、『祭りの準備』の前日談とも言える中学時代を描いた映画『郷愁』で脚本と初監督。 1989年、NHKドラマ『恋愛模様』『海照らし』『幸福な市民』〔NHKアーカイブス 〕で第8回向田邦子賞を受賞。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中島丈博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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