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中島元行 : ウィキペディア日本語版
中島元行[なかしま もとゆき]

中島 元行(なかしま もとゆき)は、戦国時代武将備中国賀陽郡阿曽郷経山城(現岡山県総社市黒尾)の城主。通称は大炊介。妻は清水宗治の娘。父は中島輝行、弟は中島九右衛門、嫡男は中島義行。
== 経歴 ==
中島家の本姓は藤原氏。先祖は工藤遠江介為憲の末裔(藤原南家工藤氏)の末裔で、鎌倉幕府政所令・後に別当、十三人の合議制の一人となった。二階堂氏の祖である二階堂行政が、鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。
室町幕府10代将軍足利義稙将軍の近侍であった二階堂大蔵少輔政行のとき、義稙の秘命を帯びて備中国の地頭として管領大内義興の幕下に属した。初め岡山県浅口郡片島(現岡山県倉敷市)に居城し、岡山県浅口郡片島の中島に在城したので中島と改めた。後に賀陽郡阿曽の経山城の城主となり、政行・氏行・輝行・元行と四代にわたって居城した。
元行の代には大内氏に代わり中国地方の覇者となった毛利氏の幕下に属し、清水宗治とともに小早川隆景の配下となった。
元亀2年(1571年)には、経山城を守って、尼子氏の残党軍と一戦を交えている。
天正10年(1582年)、織田信長の命令により中国攻めの方面軍を率いていた羽柴秀吉が備中に侵攻し、備中国高松城が包囲された際、城主清水宗治とともに副将として元行も籠城して抗戦した(備中高松城の戦い)。
長期間に及んだ籠城戦は、宗治の切腹を条件として秀吉と和議が結ばれた。開城後、元行は宗治の嫡子源三郎(清水景治)の後見をする。
その後、豊臣政権下で大名となった小早川隆景が筑前名島(現福岡県福岡市)に移ると、清水五郎左衛門(清水景治、源三郎)と元行、元行の嫡男義行は小早川家に召しだされ、仕官した。隆景が死去すると皆、小早川家を退去し、景治は毛利輝元に仕え、元行と義行は、小寺村で帰農した。
のち、義行は慶長5年(1600年)の関ヶ原の役後まもなく結城秀康に仕官し、義行の家系は義行の嫡男昌行の子孫が継いだ。
元行は慶長19年(1614年)1月に死去、墓は報恩寺(現岡山県総社市小寺)にある。その後の中島氏は、浅尾藩蒔田氏より客分として処遇された。
『中国兵乱記』は中島元行が著したものである。
平常の住居は賀陽郡刑部郷小寺村(現岡山県総社市小寺)にあり、南北三丁、東西四丁、四方に二重の堀をめぐらしていたという。小寺にあった中島氏の住居跡地は、現在「小寺中島公園」となっている。庭として使用していたところは、当時に近い状態で残されており、「願主 中島元行」と刻まれた廣峯神社が現在も残っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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