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中島光一 : ウィキペディア日本語版
中島光一[なかじま こういち]
中島 光一(なかじま こういち、1948年- )は、シンガーソングライター。障害者施設役員。
NHKみんなのうた」で放送(歌=松崎しげる東京放送児童合唱団1979年6月〜7月)、音楽の教科書、保育者向けの歌集〔小学校2年生向け歌集教材「かぜに のれ うたごえ」、「改訂 歌え1・2・3」、「保育学生・保育者のための子どもの音楽 提言と『子どもの歌60選』」(いずれも教育芸術社)。〕などに掲載され、幼稚園、学校でも歌われている「大きなうた」の作詞・作曲者として知られる。
== 経歴 ==
1948年、京都生まれ。
中学時代にアメリカのフォークソングうたごえ運動の影響を受け作曲を始める。すずききよしらが講師を務める京都フォークスクールで修業。
立命館大学在学中にフォーク集団ポロを結成。京都の各学園・地域のフォークサークルが集まって、京都フォークソング連絡会議を組織。代表議長をつとめる〔中島光一プロフィール  『大きなうた』オフィシャルサイト内〕。
1971年夏には、京都フォークソング連絡会議が呼びかけて、関西圏を中心に、フォークグループが集まり、京都府の丹後半島の付け根にある大江山で、第1回「歌の里」フォークキャンプを開催。フォークスクールや1969年に途絶えたフォークキャンプの経験から学びながら、民衆の歌づくりと普及をめざすものだった〔すずききよし「『歌の里』由来記」(一声社刊『SINGOUT1』1974年、所収)による。「歌の里フォークキャンプ」には、1971年11月に「出発の歌」で第2回世界歌謡祭グランプリを受賞する前の上条恒彦、“律とイサト”と言うデュオ・グループを結成したばかりの中川イサト村上律、デビューしたばかりのもんたよしのりらがゲストとして参加したとされる。〕。
大学卒業後、大阪府内の重症心身障害児の施設に勤務しながら創作演奏活動を続け、1973年藤村直樹ひがしのひとしとのライブ盤のLP「十年目のごあいさつ 1973」を自主制作。その後も、URCレコードから新譜をリリースし、一時期のURCレコードの看板シンガーのひとりでもあった〔宮里ひろしの項目参照〕。
1990年、妻でシンガーソングライター野田淳子とともに米国・ニューヨーク州ビーコンピート・シーガーの自宅を訪ねる〔当時の写真 野田淳子ホームページ内〕。
2001年6月、京都教育文化センターホールで音楽活動40周年コンサートを開催。URCのディレクターでもあったひがしのひとし、古川豪らからメッセージが寄せられた〔お祝いのメッセージ  『大きなうた』オフィシャルサイト内〕。
現在は、京都の障害者共同作業所の役員を務めながら、野田淳子への楽曲提供や、「中島光一とWINDS WAY」を結成、ソロやユニットで活動している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中島光一」の詳細全文を読む



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