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中島宝三 : ウィキペディア日本語版
中島寶三[なかじま ほうぞう]

中島 寶三(なかじま ほうぞう、1904年5月27日 - 没年不詳)は、日本の映画監督脚本家である〔キネマ旬報社, p.284.〕〔''中島宝三''、''jlogos.com'', エア、2013年4月2日閲覧。〕〔''中島宝三''日本映画データベース、2013年4月2日閲覧。〕〔''中島宝三''、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月2日閲覧。〕〔''中島宝三''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月2日閲覧。〕。本名同じ、新漢字表記中島 宝三〔〔〔〔〔。
== 人物・来歴 ==
1904年明治37年)5月27日に生まれる〔〔。正確な生地は伝えられていないが、九州出身とみなされている〔〔。
高等商業学校(現在の新制大学経済学部に相当)を卒業後、1922年(大正11年)、満18歳にして映画の製作プロダクションを九州で設立するが、1年半で解散、機材を含めた全財産を整理し、親から勘当を受ける〔。岸松雄が執筆した『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)によれば、1923年(大正12年)9月、東亜キネマに入社、翌1924年(大正13年)、牧野省三に監督助手・脚本見習として師事する旨の記述があるが〔、東亜キネマが設立されたのは同年12月であり、東亜キネマが牧野省三の撮影所を買収するのは翌年6月である〔等持院撮影所 立命館大学、2013年4月2日閲覧。〕。記録に残る最初の脚本作品は、牧野省三が東亜キネマと決別し、御室撮影所を新設して設立したマキノ・プロダクションが製作、1925年(大正14年)8月28日に公開した『白虎隊』(総監督マキノ省三、監督勝見正義)である〔〔。1926年(大正15年)12月15日に公開された『照る日くもる日 第三篇』では、マキノ省三総監督のもと「監督」とクレジットされている〔〔。単独クレジットによる監督デビュー作は1927年(昭和2年)4月15日公開の『紫地獄』であるとされる〔〔〔。一本立ちした中島に師事した助監督に藤田潤一がおり、藤田は多く中島の脚本を手がけた>〔〔〔キネマ旬報社, p.342.〕。
1929年(昭和4年)7月25日、師事した牧野省三が死去したのち、マキノ正博による新体制において15作を監督したが、1930年(昭和5年)末をもって同社を退社、帝国キネマ演芸に移籍した〔〔〔。1931年(昭和6年)8月28日、同社が新興キネマに改組されると、継続的に新興キネマ京都太秦撮影所(現在の東映東京撮影所)に入社したが、1932年(昭和7年)末には東京に移住し、河合映画製作社に移籍した〔〔〔。1933年(昭和8年)6月、同社が大都映画に改組されると、継続的に大都に入社、1941年(昭和16年)末まで多くの映画を演出した〔〔〔。大都映画で中島に師事した助監督には佐伯幸三がいた〔渡邉, p.225.〕。
1943年(昭和18年)、中島は陸軍報道班員として徴用され、フィリピンマニラに赴任した〔〔渡邉, p.196-197.〕。このとき、マキノ時代の同僚であった山上伊太郎(1903年 - 1945年)も同船であったという〔。このときの報道班員は中島・山上のほかに、荒井良平日夏英太郎山内俊英吉田百助樋口哲雄内海信二らがいた〔桜本, p.125.〕。以降、映画界からは姿を消した〔〔〔。
第二次世界大戦後は、別府市観光協会が1950年(昭和25年)4月15日に発行した『観光別府』に『映画と劇場』という記事を執筆している。1955年(昭和30年)7月に発行された『愛媛教育時報』第8巻第9号に『三輪田米山』という記事を寄稿している〔三輪田米山 国立国会図書館、2013年4月2日閲覧。〕。没年不詳

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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