|
10代式守錦太夫(じゅうだい しきもりきんだゆう、1940年8月6日 - 2007年2月10日)は大相撲の元三役格行司。二所ノ関部屋所属。 == 人物 == 佐賀県出身。本名:中島忠雄。 1957年11月に木村忠雄の名で初土俵。序ノ口格で14代木村玉光 (のちの25代木村庄之助) の付人になった〔根間弘海 (2011) 「行司の木村姓と式守姓の名乗り」、『専修人文論集』 89、p.133。〕。 裁きは正確であったが、幕内格最上位の時に一度だけ、不運が重なり、力士の下敷きになり、骨折・休場したことがある。2001年7月場所3日目、前頭7枚目玉乃島-同5枚目隆乃若戦で、隆乃若が寄り切りで勝った際に、錦太夫は逃げ場を失い、両力士の下敷きになって土俵下に転落、右足かかとを粉砕骨折し全治3ヶ月の重傷を負った。 幕下格行司の頃、ある本場所で行司溜まりに控えた錦太夫(当時は木村忠雄)を、正面審判長席の二子山審判長(元横綱初代若乃花)がいぶかしげにジロジロ見ていた。錦太夫は気にはなっていたが最初は分からなかった。すると錦太夫の両側にいる審判員まで、錦太夫の頭の上から見下ろしておかしな顔をしている。実は錦太夫の頭には行司が被る烏帽子がなかったのである。慌てて花道を駆けて取りに戻ったというエピソードがある。 なお、裁き中の掛け声は、30代式守伊之助と似ているが、「はぁけのこったあ、ながったながった、ながったながった」と、それに比べてやや気の抜けた感じの声だった。また、勝ち名乗りで力士の名前を呼び上げる際は、彼独特のリズムを持っていた。 2007年2月10日、急性心不全のため死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「式守錦太夫 (10代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|