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中島撫山[なかじま ぶざん] 中島 撫山(なかじま ぶざん、本名:中島慶太郎、1829年5月14日(文政12年4月12日) - 1911年(明治44年)6月24日)は、幕末から明治時代の教育者・漢学者である。 == 人物・生涯 == 中島撫山は1829年(文政12年)4月12日、江戸亀戸に生を受ける。生家は江戸初期以来、諸大名に駕籠を納入する日本橋新乗物町(今日の東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の豪商であった。数えで11歳の時、母が亡くなる。14歳の時に出井貞順に入門し、出井貞順の薦めで亀田綾瀬に入門する。19歳で父と死別する。1858年(安政5年)に両国矢ノ倉に私塾「演孔堂」を開塾する。1869年(明治2年)12月、武蔵国埼玉郡久喜本町122番地(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本、今日の久喜市本町6丁目)に移住する。1872年(明治5年)、久喜に戸籍を移す。1878年(明治6年)には久喜本町の住居に私塾「幸魂教舎(さきたまきょうしゃ)」を開塾する。「幸魂教舎」の「幸魂」とは埼玉の古い読み方である「さきたま」に由来する。その後、晩年の1909年(明治42年)には大字久喜本より大字久喜新(今日の久喜中央2丁目)へと転居する。その2年後の1911年(明治44年)6月24日、83歳で永眠する。 中島撫山の墓は神道式となっており、久喜市本町1丁目の光明寺に眠っている。また、久喜中央2丁目(旧:大字久喜新)の住居跡地に六男の田人(中島敦の父)撰文の記念碑が中島撫山の没後30年の1941年(昭和16年)に建てられ、現存している。 上記の「幸魂教舎」のように、中島撫山は地域での教育においても功績を残し、また久喜の地に移り住み永眠するまで多くの撰文などを行い、碑文も数多く残すなど、旧久喜町やその周辺地域にその足跡・功績を多く残している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中島撫山」の詳細全文を読む
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