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中島 春雄(なかじま はるお、1929年1月1日 - )は、日本の元俳優、スーツアクター、スタントマン。愛称は春ちゃん。趣味・特技は水泳、潜水、スキューバ・ダイビング、柔道。 == 来歴 == 山形県酒田市出身。実家は肉屋で、五人兄弟の三男だった。水泳・素潜りが得意で、のちのゴジラ役では大いにこれが役立った。三男坊に家業は継げず、小学校卒業後に横須賀へ移る。 1943年(昭和18年)、14歳で横須賀の海軍航空技術廠の養成所に入る。養成員(予科錬)となり、発着機部(カタパルト担当)配属となる。円谷英二や有川貞昌と同じく、飛行機乗り志望だった。 1945年(昭和20年)、16歳。敗戦となり、実家へ戻る。家業を継いだ兄がまだ復員しておらず、肉屋を1年間手伝う。 1946年(昭和21年)、17歳。兄が復員したため、予科錬の同僚の紹介で、三沢飛行場で進駐軍の物資輸送トラックの運転手となる。 1947年(昭和22年)、18歳。進駐軍の仕事が横浜に移るが、トラックを速度超過運転してしまい、牢屋に留置された後、占領軍から解雇される。新聞広告を見て「映画俳優学校」という俳優養成所に応募し、東宝や新東宝などの映画撮影所に出入りするようになる。 1949年(昭和24年)、20歳。黒澤明監督作品『野良犬』で映画に初出演するが、編集で出演シーンを全てカットされてしまったため、幻のデビュー作となった。 1950年(昭和25年)、21歳。俳優学校の講師からの誘いで東宝に入社。同期生には広瀬正一、丹波哲郎、高倉みゆきらがいる。役のつかない、いわゆる「大部屋俳優」となる。当時の東宝は賃金不払いが常態化しており、運転手時代の貯金を切り崩しながらの不安定な立場だったという。こうした状況から、組合に加入し、映画界の労働争議にも加わっている。 1953年(昭和28年)、24歳の折に『太平洋の鷲』での攻撃機航空兵役で、日本で初めて身体に火をつけてのファイヤースタントを演じる。当時、日本にはスタントマンという職業はまだなく、「吹き替え」と呼ばれていた。この時期、数々の吹き替えをこなす。 1954年(昭和29年)、25歳。日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』で、主役の大怪獣ゴジラの中島曰く「ぬいぐるみ役者(スーツアクター)」を務める(この起用については、前述のファイヤースタントを見た監督の本多猪四郎に褒められたことがきっかけではないかと中島は述懐している)。以後18年間にわたり、ゴジラシリーズでゴジラを演じた「ゴジラ俳優」として有名になる。また、ゴジラ以外の怪獣映画でも、主役の怪獣役を演じる。 1956年(昭和31年)、27歳。『空の大怪獣ラドン』でラドン役を演じ、日本初の本格的なワイヤーアクションを演じる〔。 1965年(昭和40年)、36歳。『三大怪獣 地球最大の決戦』公開後、松屋デパートを皮切りに、撮影用の「本物」のゴジラを着てのキャンペーン巡業が始まり、大阪や名古屋など各都市でゴジラの実演を行う。 同年、円谷英二監督から直接、「春坊、TV番組をやるからちょっと助けてくれ」と声をかけられ、円谷プロダクション初のテレビ特撮作品『ウルトラQ』で怪獣「ゴメス」役を演じる〔 pp.305 - 306 「ウルトラセブンコメント集」。〕。以後、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』にも怪獣役などで出演したほか、怪獣ショーの立ち回り指導も行なっていた〔。 1971年(昭和46年)、42歳。東宝から専属契約解除を言い渡され、その後、東宝撮影所脇の東宝経営のボウリング場〔朝日新聞 土曜版 2014年1月11日 映画の旅人 ゴジラ - 朝日新聞社〕〔ゴジラやミニチュアなど造形物を作ってきた特殊美術課の建物を取り壊した跡に建てられた。〕に勤務。 1972年(昭和47年)、43歳。特撮スタッフからたっての願いを受けて『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』でゴジラを演じる。この作品を最後に、ゴジラのぬいぐるみ役者を引退する。ボウリング場閉鎖ののちは、東宝経営の麻雀店の店長を務めた。麻雀店のほか、東宝共栄企業や東宝日曜大工センターで勤務していた時期もあった。 2011年(平成23年)、アメリカ合衆国ロサンゼルス市より市民栄誉賞を受賞する〔昭和史再訪セレクション Vol.120 ゴジラ誕生 - 朝日新聞 2011年10月29日夕刊(朝日新聞社)〕。 2012年(平成24年)11月、出身地である酒田市より「第1回酒田ふるさと栄誉賞」を受賞する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中島春雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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