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中島栄次郎 : ウィキペディア日本語版
中島栄次郎[なかじま えいじろう]

中島 栄次郎(なかじま えいじろう、1910年明治43年)8月18日 - 1945年昭和20年)5月27日)は、日本の評論家詩人哲学者
京都帝国大学教授の田辺元のもとで、ニーチェの研究などに携わり、毎日新聞文芸評論を書いた(その際の担当記者が井上靖)。大阪高等学校 (旧制)の同級生を中心に文芸同人誌『コギト』の創刊メンバーである。はじめ沖崎猷之介の筆名を用い、第16号(昭和8年9月号)以後は本名で主に評論を、また詩、小説を発表した。また、文芸同人誌『日本浪漫派』の創刊メンバーである。その創刊号の巻頭に「浪漫化の機能」を執筆した。同人には第二号から太宰治檀一雄、第三号からは伊東静雄大山定一らが加わった。文学界に大きな影響を与えた。他に「文芸文化」「思想」「四季」「新潮」「文学界」などにも執筆した。日本大学大阪専門学校(現近畿大学)と天理外国語専門学校(現天理大学)の教授を務めた。戦時中は統制下にあり、自由に物を書くことができなくなった。出征した後、フィリピンルソン島マニラ郊外の山地で戦死した。
==年譜==
〔『中島栄次郎著作選』の494頁から497頁までを引用〕
;明治43年(1910年)
:8月18日、大阪府大阪市南天王寺区六万体町5967番地(現天王寺区六万体町6番)に、父・中島栄太郎、母・キリの四男として出生。姉一人、兄三人の五人兄弟の末弟である。生家は明治30年(1897年)頃は大阪府南河内郡狭山村大字池尻220番屋敷(現大阪狭山市池尻一丁目)にあり、代々の庄屋だったという。
;大正6年(1917年)
:4月、大阪市天王寺第二尋常高等小学校尋常科に入学。
;大正7年(1918年)
:8月28日、次兄彦七死亡。行年18歳。
;大正12年(1923年)
:3月、天王寺第二尋常高等小学校尋常科を卒業。このあと中島は父母の請いを容れて、一旦は同校の高等科に進学した模様である。しかし勉学への希望を抑えきれず、翌年改めて大阪市天王寺商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)に入学したと思われる。
:後年中島は「宇宙的荘重の評論」(『コギト』第79号)において友人松下武雄の早逝を悼み、「僕等は松下と共にコギトの最初からの同人であった、中等学校以来はずっと彼と共にいた、中等学校のとき彼は僕より一年上だったが顔は知っていた、高等学校以来はずっと同級であった」と述べている。この松下武雄は明治43年(1910年)4月21日生まれで、つまり二人は本来は同学年のはずである。中島が天王寺商業で松下の一年下級であったのは、上のような事情からであったと推測される。
;昭和3年(1928年)
:4月、大阪高等学校文科乙類(旧制)入学。
:同じ文科乙類に松下武雄も合格した。当時の中学校、商業学校、工業学校からは5年卒業者しか受験が許されなかった。1級上の松下は5年卒業で問題はなかったが、中島は高等学校入学試験を受けて合格し、大阪高等学校を受験し文科乙類37名中9番で入学した。
:中島のクラスには保田与重郎田中克己服部正己肥下恒夫松浦悦郎たちもいた。これらの文科乙類の文学仲間たちが、中心になって、のちの『コギト』が創刊されることになる。
;昭和5年(1930年)
:この年、保田、田中、松下らと短歌雑誌『炫火(かぎろひ)』を発刊し、中島は「詠二」の筆名で寄稿した。『炫火』は翌昭和6年(1931年)までに12号刊行された。
;昭和6年(1931年)
:3月、大阪高等学校を卒業。
:4月、京都帝国大学文学部哲学科に入学する。文化乙類からは松下武雄も同じ哲学科に進んだ。
;昭和7年(1932年)
:3月、大阪高等学校の同級生を中心に文芸雑誌『コギト』を創刊。誌名はデカルトの"cogito, ergo sum"(我思う、ゆえに我あり)から付けられた。保田与重郎は第一号の編集後記に、「私らは『コギト』を愛する。私らは最も深く古典を愛する。私らはこの国の省みられぬ古典を殻として愛する。それから殻を破る意志を愛する」と創刊の辞を記した。中島栄次郎ははじめ沖崎猷之介の筆名を用い、第16号(昭和8年9月号)以後は本名で主に評論を、また詩、小説を発表した。
:この『コギト』を読んだ伊東静雄から「コギトの詩人なかなかよろしい」という葉書が届いた。大学の夏休みを利用して中島が田中とともに伊東を訪ねたのが、のちの二人の親しい交わりになってゆく。
:なお、中島、保田、松下の三人は毎号のように評論を執筆したが、田中克己は三人の特色を、松下は荘重、中島は華麗、保田は奔放という言葉で評している。
;昭和8年(1933年)
:この年、『コギト』のほか『三田文学』『思想』などにも評論を執筆。以後しだいに著作活動の場がひろがる。
;昭和9年(1934年)
:1月28日、母キリ死亡。行年56歳。
:3月、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。卒業論文は「カントに於ける芸術の問題」であったが、田辺元はこの論文を松下武雄の「シェリングに於ける構想力の問題」とともに、“昭和九年の京都大学哲学専攻の卒業論文の雙壁”と推賞した。
:4月、同大学大学院に入学。
;昭和10年(1935年)
:3月、文芸雑誌『日本浪漫派』を保田与重郎、亀井勝一郎中谷孝雄たちと創刊。中島は創刊号の巻頭に「浪漫化の機能」を執筆した。同人には第二号から太宰治檀一雄、第三号からは伊東静雄、大山定一らが加わった。
;昭和11年(1936年)
:9月11日、父栄太郎死亡。行年59歳。
:12月18日、三兄房次郎死亡。行年33歳。
;昭和13年(1938年)
:9月2日、召集を受けて大阪歩兵第37連隊へ入営。健康上の理由で即帰郷となる。
:10月9日、永年の友人松下武雄が死亡する。松下は生前『コギト』にシェリングの芸術哲学の訳稿を6年にわたって連載していたが、未完であった。中島はその遺稿を出版しようと、服部正己とともに未訳稿の翻訳につとめた。翌昭和14年(1939年)9月、短歌・詩を主体とした松下武雄遺作集『山上療養館』が刊行されたが、シェリングの訳稿はその後出版されていない。
;昭和14年(1939年)
:8月、伊東静雄にすすめられて、池田勉栗山理一清水文雄、伊東らと軽井沢で過ごす。
;昭和15年(1940年)
:2月、日本大学大阪専門学校(現近畿大学)に理学科の設置が認可された。中島は同理学科に招かれて、ドイツ語および教育学を講義する。
:7月26日、ハンス・ドリーシュ著、清徳保男訳『形而上学』(岩波文庫)が出版された。清徳は昭和12年(1937年)自分のこの訳書刊行を見ずに亡くなっているが、中島の大阪高等学校での3年上級である。同書の出版に際して、中島はやはり大阪高等学校の先輩にあたる五十嵐達六郎野田又夫(当時はともに大阪高等学校の教授であった)に協力して訳稿の校閲を受持ち、田中克己は原稿の訂正清書にあたった。『形而上学』の序は天野貞祐、跋は五十嵐達六郎が書いたが、五十嵐はとくに野田、中島、田中の名をあげて労を謝している。
;昭和16年(1941年)
:6月、『コギト』創刊以来十年間の詩部門からの選集『コギト詩集』が刊行される。中島の作品は「詩の論理と言語」(評論)および「冬日感懐」、「河の上」、「朝の歌」の詩三篇が収録された。
;昭和17年(1942年)
:3月26日、奈良県添上郡櫟本町大字檪本(現天理市櫟本町)藤谷智照・キヌエの二女明子と結婚。
:5月、第2回の召集を受けたが、このときも即日帰郷となる。
:7月2日、姉進藤コト死亡。行年37歳。
;昭和18年(1943年)
:5月、井上靖(毎日新聞社勤務、のち作家)を通じて、関西女子美術学校の美学講師を依頼される。同校は当時の大阪市阿倍野区阪南町西1丁目にあったが、太平洋戦争の戦局急迫にともないこの年暮れに廃校となった。
:9月16日、天理外国語専門学校(現天理大学)の講師となる。教科はドイツ語、道義、心理学であった。
:この年、日本大学大阪専門学校は大阪専門学校と改称されたが、学園では大学設置にからんで騒動が発生する。俗に「大専騒動」と呼ばれたが、『近畿大学創立65年の歩み』(1990年近畿大学刊)は、「この事件は、校長派と反校長派、それに軍関係者までが入り乱れた大きな騒動となり、大阪専門学校は危うく廃校寸前にまで追い込まれた」と述べている。騒動は昭和19年(1944年)に至って終結するのだが、中島栄次郎はこうした紛争をきらい、大阪専門学校を退いたと思われる。なお中島はこの年9月末はまだ同校に在職していた。大阪専門学校理学科第2回卒業の南川正純は、「戦争のために私たちは2年半で繰上げ卒業となったのですが、9月30日の最後の講義で中島先生は、今日はくだけた話をしようと言って、堺事件の話をされた」という(戦局が悪化したこの頃は、大学・予科・高等学校・専門学校は3年の修業年限を6カ月短縮され、繰上げ卒業となっていた)。
;昭和19年(1944年)
:3月1日、天理外国語専門学校教授となる。
:6月1日、教育召集を受け、中部第22部隊に入営する。
;昭和20年(1945年)
:5月27日、フィリピン諸島ルソン島にて戦死。
:アメリカ軍がルソン島に上陸したのは昭和20年(1945年)1月9日であった。同月下旬マニラに向かって進攻を開始し、3月3日マニラは完全に占領された。第14方面軍(司令官山下奉文大将)は北部山岳にたてこもって抗戦をつづけたが、公報(死亡通知)によると中島栄次郎は「リザール洲イポ」で戦死したとある。この公報は敗戦後2年を経過した昭和22年(1947年)10月23日付で、大阪府知事赤間文三により遺族に発行された。
:天理外国語専門学校では公報受理の12月7日をもって、中島の退職を発令した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中島栄次郎」の詳細全文を読む



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