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中島竦 : ウィキペディア日本語版
中島竦[なかじま しょう]
中島 竦(なかじま・しょう、1861年1940年6月11日)は、明治から昭和にかけての漢学者。竦は「たかし」とも読む。幼名は辣之助、字は翹之。号は玉振(道人)または蠔山(介夫)。兄に中島綽軒(靖)・中島斗南(端)、弟に関翊・山本開蔵・中島田人(作家・中島敦の父)・中島比多吉がいる。
==生涯==
漢学者であった中島撫山の三男として、武蔵国埼玉郡久喜本町に生まれる。父について皇漢学を修め、兄の斗南とともに父の私塾・幸魂教舎で弟子たちに教える。1885年に幸魂学舎を私立専門学校として改めて設置した言揚学舎の名義人・教員となり、1887年には尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状(国語科・漢文科)を取得している。1894年頃、上州玉村(現在の群馬県玉村町)の有力者・千輝仙蔵に招かれて学を講ずる。羽鳥千尋に教えたのもこの時である。1902年11月に中国に渡って京師警務学堂に勤務し翻訳などを担当する。二葉亭四迷はこの時の同僚(提長代理)であり、清国公使館付武官だった青木宣純とも知り合っている。十数年北京にいた後、東京麹町にあった善隣書院に招かれ、モンゴル語中国語を教えた。主宰の宮島大八は書院内に居室を与えて竦を厚遇し、院長の松平康国とも懇意となった。研究と著述に専念し、80歳で没する。松平康国が『玉振中島君碑銘』の一文を撰したが碑石は建てられていない。墓は多磨墓地にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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