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中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12年12月8日) - 1905年(明治38年)10月5日)は、幕末の徳島藩士、明治時代の内務・司法官僚、裁判官。官選県知事を歴任、元老院議官・貴族院議員。錦鶏間祗候、華族(男爵)。 またの名を中島永吉、直人〔〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、p.232〕。明治維新後に錫胤と名乗る。号は可庵〔、無外〔。 == 生涯 == 徳島藩士・三木章介の長男として〔、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる〔。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学び、京都に出て儒者・中島棕隠の門下となる〔。老齢の中島棕隠の養子となり〔、中島永吉と称した。 幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走〔。桜田門外の変を引き起こした水戸藩士の金子孫二郎、高橋多一郎らと関わったことから、万延元年(1860年)には事件関係者として捕えられ、伏見で投獄された(のち赦免)〔。また、文久3年(1863年)には足利三代木像梟首事件に関係したとして、小室信夫とともに幕吏に追われる〔。徳島に逃れ、豪商志摩利右衛門に匿われるが捕えられ、慶応4年(1868年)4月まで獄中にあった〔。 明治元年(1868年)、徳島藩の徴士となり〔、刑法事務局権参事、刑法官参事として出仕〔。明治2年(1869年)に兵庫県知事に任命された(任期はごく短期間であり、神戸に着任はしなかった)ほか、地方官として勤務〔。1873年(明治6年)以後は司法省に勤務し、長崎裁判所長、静岡裁判所長、長崎・宮城・名古屋の各控訴裁判所長を歴任〔。1884年(明治17年)に元老院議官となる〔。明治22年(1889年)に山梨県知事となり〔、4年間その席にあった。 1896年(明治29年)6月、男爵に叙せられる〔。翌年貴族院議員となった。 1905年(明治38年)10月5日没、77歳〔。東京都豊島区に墓碑がある。 錫胤は華族一代論を主張していたため、死後襲爵の手続きがなされなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中島錫胤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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