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田道間守(たじまもり/たぢまもり)は、記紀に伝わる古代日本の人物。 『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。 天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神としても信仰される〔浜本年弘(2014年4月20日). “菓子祭前日祭:新庁舎に「甘〜く」花添え−−豊岡”. 毎日新聞 (毎日新聞社)〕。 == 記録 == 田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。 『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」〔「ときじくのかくのみ」とは、「時期を定めずいつも(トキジク)輝く(カク)実」の意味で、いつも黄金色に輝く橘の実を表す(『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、p. 335)。〕すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日〔『日本書紀』景行天皇即位前紀では、垂仁天皇崩御年を99年2月とする。〕に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。 『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」〔(同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田道間守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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