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中嶋豊蔵(なかじま とよぞう、1926年~1945年6月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。昭和20年6月3日に第48振武隊隊員として、沖縄方面にて特攻戦死、享年19歳。 == 来歴 == 愛知県豊橋市の農家に生まれた豊蔵は、家が貧しかったことから、中学時代、このままずっと勉学を続けるにはどうしたら良いか 悩んでいた。学校での成績は優秀で、体格も視力も良かったことから、中学の教師に軍隊の教育部に編入してみてはどうかと 薦められる。これだ!と思った豊蔵は、15歳の時に両親の承諾を経て、大日本帝国陸軍飛行教育科を受験し、見事に合格。 こうして、少年飛行兵第12期となる。 学校は福岡にあった、15歳の少年は独り、故郷を後にしている。飛行少年兵としての生活を送る訳だが、幾ら15歳の子供でも、 志願し、入隊したからには立派な軍人である。隊での生活は非常に厳しく、容赦なかった。学問の他に、軍人としての教練がある。 そして、僅かながらも報酬が貰えた。親孝行の豊蔵は、その金を殆ど故郷の両親に宛てて送金している。 昭和19年10月、内地から台湾に戻る途中、同僚で親友だった松本真太治(またじ)軍曹と共に陸軍最大の特攻基地があった知覧に 立ち寄り、10日間そこに滞在している。この時、豊蔵たちが食事をしていた所が富屋食堂で、そこの主人が鳥浜トメだった。 トメは性格が明るく、温厚な人で、兎に角、肝っ玉母さんそのものであった。 そういう人だったから、豊蔵ら少年兵たちは皆、彼女に懐き、いつの間にかトメのことを「お母さん」と呼ぶようになっていた。 トメにも二人娘がいて、少年兵たちとほぼ同じ年頃だったから、二人を育てようが何十人育てようが、同じことだと思った。 それに、少年兵たちには家庭がいない、15歳で家を出て軍人として教育されていても、やはりまだ母親が恋しい年頃である。 トメは、時に少年兵たちの心の支えとなり、時に相談者となり、そして、いつも彼らの母親代わりだった。 こうして豊蔵たちも、この10日間の間は毎日、富屋食堂で朝・昼・晩と食事をし、休息時間になると必ずこの食堂の二階の畳部屋で くつろぐのだった。当時はまだ、この二階の部屋には少年兵がいつも絶えることなくいた。 豊蔵と真太治が再び知覧を訪れることになったのは、昭和20年5月25日のことだった。 今度も飛行機で知覧入りし、丘の上にある知覧基地から軍トラックで、麓の村の富屋食堂に行った。前回と全く同じ 懐かしい道のりだったが、この時、知覧は既に特別攻撃作戦の最大基地と化しており、豊蔵たちの最初で最後の軍命令が 特攻だった。 軍トラックが富屋食堂に着くか否かの寸前に、懐かしい鳥浜トメの姿を見た富蔵は、走っているトラックの後ろから 飛び降りた。そして、利き腕の右腕を捻挫し、腫れ上がるほどの怪我をしてしまった。利き手は痛くて動かせなくなったが、 トメに再会できたことは嬉しかった。豊蔵がまだ動いているトラックから飛び降りたのは、富屋食堂を素通りしようとした からだった。しかし、これから出撃する者として、この怪我は最悪の事態を招いていた。 ただ、豊蔵本人は、「これしきの怪我、出撃命令が出たら、どうしてでも行きますよ」と言うだけで、けろっとしていた。 処が、5月28日の出撃リストには、松本真太治の名しかなく、豊蔵は外されていた。 出撃日、豊蔵は入隊してから初めて親友の松本真太治と離れ離れになった。しかも、これは永遠の別れである。 真太治を送った後、豊蔵は富屋食堂で独り号泣した。親友を失った悲しさだけでない、隊と離れ離れになってしまった 寂しさ、そして、他の見知らぬ隊と行く辛さ、など豊蔵の心は乱れに乱れた。 トメはそんな豊蔵の心と怪我の看病をし、食事を与え、慰めてやった。 そんな時である、突然、富屋食堂の戸が開き、なんと死んだ筈の松本真太治の姿がそこにあった。 松本機は途中で故障して引き返してきたのだ。上官にはこっぴどく怒鳴られたが、真太治も豊蔵に会えて嬉しかった。 豊蔵と真太治は再び、次の出撃命令が出るまで三角弊社と富屋食堂を一緒に行き来するようになった。 こうして、6月2日を迎えて、翌日の出撃命令を受ける。 この2日の日、「ずっと風呂に入ってない」と言う豊蔵の言葉を聴いて、トメは風呂を沸かし、背中を流してやった。 右腕は動かすとまだ痛むようだった。しかし、今度こそは絶対に何がなんでも真太治と一緒に出撃するときかない。 「中嶋さん、ちゃんと腕の養成をしてから行きやんせなぁ。そいじゃかとよか手柄は立てられもはんど...」 「お母さん、今はそんな悠長なことを言っている場合じゃないんだよ、僕らが早く行かないと日本は勝てないんだ」 こんなにも健康で、立派に育った子供たちが次から次へと出撃していく。トメは豊蔵の背中を擦りながら泣くのを堪えていた。 「お母さん、痛いよ」 「そうら、痛かんどが、やっぱい治ってから行かんな」 「違うよ、お母さんが、同じ所ばかり擦るから背中が痛いんだよ」 トメはもう涙を抑えることが出来なかった。 「お母さん、泣いているのか」 「いいや、ちっと腹が痛かもんごわんで」 「それはいけない。お母さんこそよく養成をしてくださいよ。あすは見送りに来なくてもいいですから」 この会話が、鳥浜トメが死ぬまで彼女の心の中で生き続けた中嶋豊蔵という一少年特攻兵の想い出である。 中嶋豊蔵というこの少年の話は、トメの回想禄にしか見ることが出来ない。 昭和20年6月3日、豊蔵と松本真太治は愛機に乗った。豊蔵は利き腕を自転車のゴム・タイヤで操縦棒に括り付けての出撃だった。 そして、その晩も、翌日も、また、次の日も、彼らが知覧に戻ってくることは二度となかった。 この時、中嶋豊蔵も松本真太治もまだ19歳の少年だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中嶋富蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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