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中嶋砦[なかしまとりで]
中嶋砦(なかしまとりで)は、今川義元との戦いの際に織田信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つ。 == 沿革 == 尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした。そこで信長は、大高城に対して丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦を築いた。中嶋砦は守将として梶川高秀が置かれた〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「鳴海の城へ御取出の事」〕。 永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日)、今川義元が尾張に侵攻して来ると、信長は清洲城を出陣するが、鷲津・丸根両砦は落とされてしまった。信長はまず丹下砦へ入り、次に善照寺砦へ移った。そのとき義元は「おけはざま山」で休息しており、信長がさらに中嶋砦に移ろうとしたところ、脇は深田で一騎ずつしか通れない道で敵から丸見えなため家老衆が止めたが、信長は振り切って中嶋砦に移った。その時点で信長軍は2千足らずだったが、またしても家老衆が止めるのを、敵方は戦闘で疲れていると判断した信長は義元本隊に突撃し、ついに義元を敗死させた〔『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」〕(桶狭間の戦い)。その結果、今川軍は尾張から撤退し、中嶋砦も役割を終えた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中嶋砦」の詳細全文を読む
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