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中川 イセ(なかがわ イセ、1901年〈明治34年〉8月26日 - 2007年〈平成19年〉1月1日)は、日本の政治家(地方議会議員)、北海道網走市の博物館網走監獄を運営する財団法人網走監獄保存財団の元理事長。 網走市議会の初の女性議員。昭和中期の網走市において、上水道敷設による水質改善、人権擁護活動、女性の地位向上などの活動で地域発展に貢献し、「網走開拓の母」と呼ばれた。政界以前の波乱に富んだ人生でも知られ、網走市民には「中川のばっちゃん」の呼び名で親しまれた。1968年(昭和43年)にTBSテレビで放映されたテレビドラマ『流氷の女』のモデル。本名、中川 いせよ。旧姓は今野。山形県東村山郡干布村上荻野戸(後の天童市)出身〔。 == 経歴 == === 波乱の日々 === 2歳のとき、産後の肥立ちの悪かった母が死に瀕したため、里子に出された。預かり先での生活は、後に中川の長女が「NHKドラマ『おしん』の幼少時代が天国に思えるほど」と語るほど極貧であったが、実母に代って養母に愛情を注がれて育ち〔、養母の尽力で荒谷尋常小学校(後の山形県天童市荒谷小学校)に通うこともできた。学業は優秀であったが、4年修了後に生家に戻された。すでに実母は死去しており、継母のもとで家業を手伝わされ、進学は許されなかった。11歳のとき、継母との不仲から家を出た。 山形、米沢市、東京市(後の東京都)を渡り歩き、女中奉公、女工、給仕など、様々な職を転々とした。妻子持ちの男性に騙されて暴行され、1918年(大正7年)に17歳にして女児を出産、未婚の母となった。身内を頼ることもできず、自分で娘を育てようにも、幼い子供を抱えた女を雇ってくれる仕事場は何もなかったため、やむを得ず娘を里子に出した。 翌1919年(大正8年)、娘の養育費捻出のため北海道に渡り、網走の遊廓に入った。客を喜ばすために趣向を凝らし、遊女として次第に頭角を現し、一時は遊郭きっての看板遊女となった〔〔。 1921年(大正10年)、牧場経営者である中川卓治と結婚して身請された。中川家の親戚たちから結婚に反対されて居場所を失ったため、開拓景気に沸く樺太に渡り、夫婦で牧場、旅館、飯場などで働いた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中川イセ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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