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中川 保雄(なかがわ やすお、1943年 - 1991年5月10日〔『放射線被曝の歴史』技術と人間、1991年、奥付〕)は、日本の工学者。工学博士。科学技術史研究者。神戸大学教養学部教授。専門分野は科学技術史。 == 略歴 == * 奈良県生まれ * 1961年 - 大阪大学工学部精密工学科に入学。 * 1978年 - 大阪府科学教育センター研究員を経て、神戸大学教養部自然科学史教室に着任。 * 1988年 - 神戸大学教授に就任。 1979年のスリーマイル島原子力発電所事故をきっかけに、反原発運動に本格的に取り組む。1980年、研究者仲間と「反原発科学者連合」を結成し、各地で学習会を開いたり、原発の下請け労働者の実態を調べたりした。1981年、妻で英文学者の中川慶子を誘い、自宅のある宝塚市で市民団体「原発の危険性を考える宝塚の会」をつくった。 1987年に渡米して入手した資料などから、国際放射線防護委員会(ICRP)の放射線防護基準がどのように作られ変遷したかを丹念にひもとき、「今日の放射線被曝防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ヒバクがやむをえないもので、我慢して受忍すべきものと思わせるために、科学的装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである。」との『放射線被曝の歴史』を病床で執筆。病没後に出版された〔<おおさか発・プラスアルファ>「被曝の真実」命懸け問うた科学者の遺言=社会部・牧野宏美 毎日新聞 2011年12月7日 大阪朝刊〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中川保雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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