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中川 秀直(なかがわ ひでなお、1944年(昭和19年)2月2日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(10期)。旧姓佐藤(さとう)。元衆議院議員中川俊思の女婿。衆議院議員中川俊直は次男。名を「しゅうちょく」と有職読みされる事が少なくない。 科学技術庁長官(第54代)、内閣官房長官(第66代)、自由民主党幹事長(第39代)、自由民主党政調会長(第47代)などを歴任した。 == 略歴 == * 1944年2月2日 - 東京都出身。実父の佐藤胖(一級建築士、旧財閥系の建設会社の専務)は静岡県小山町出身である〔『中川秀直物語 - 衆議院議員 中川秀直 公式サイト』より〕。 * 1962年 - 東京都立井草高等学校卒業。 * 1966年 - 慶應義塾大学法学部卒業。 * 1966年 - 日本経済新聞社入社。政治部記者となる。 * 1976年 - 義父・中川俊思の地盤を継ぎ、旧広島2区から新自由クラブ公認で第34回衆議院議員総選挙に出馬し初当選 * 1979年 - 第35回衆議院議員総選挙で落選し、新自由クラブを離党。 * 1980年 - 第36回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し、旧広島2区でトップ当選。当選後に自民党に入党。 * 1989年 - 自民党商工部会長として消費税導入の旗振り役を務める。 * 1990年 - 第39回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬するも落選。 * 1993年 - 第40回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬。旧広島2区でトップ当選し、国政復帰。 * 1994年 - 村山内閣で首相補佐に就任。 * 1996年 - 小選挙区制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙に広島4区から出馬し、当選。第1次橋本内閣で科学技術庁長官に就任し初入閣。 * 2000年7月 - 第2次森内閣で内閣官房長官兼沖縄開発庁長官に就任。 * 2000年10月 - 愛人問題や右翼団体員との会食などスキャンダルが報道され、3ヶ月で辞任に追い込まれた。この辞任劇が低迷する内閣支持率に悩まされていた森内閣に追い討ちをかけ、同年末の加藤の乱を引き起こす遠因になった。 * 2002年10月 - 小泉純一郎総裁の下、自民党国会対策委員長に就任。小泉首相の信任も厚く側近中の側近として知られる。その政治手腕を買われて異例の長期留任となり、2005年7月に国対委員長連続在職期間最長記録を更新。在任1127日(通算2位。通算1位は大島理森)。 * 2005年10月 - 自民党政調会長に就任(初の党三役入り)。 * 2006年9月 - 安倍晋三総裁の下で自民党幹事長に就任。党選挙対策本部長代理、党北朝鮮核実験問題対策本部長を兼務。 * 2007年7月 - 第21回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け、幹事長を引責辞任する意向を表明。同年8月27日の内閣改造・党役員人事において幹事長を退任。 * 2007年10月 - 幹事長就任以来、離脱していた町村派に復帰。福田康夫内閣での町村信孝の内閣官房長官就任を受け、町村派が集団指導体制に移行したのに伴い、町村、谷川秀善と共に町村派代表世話人に就任。 * 2009年8月 - 第45回衆議院議員総選挙に広島4区から出馬するも、小選挙区では民主党の空本誠喜に敗れ落選。重複立候補していた比例中国ブロックで復活した。比例中国ブロックで当選した4人の自民党候補のうち、日本看護連盟の組織内候補で比例中国ブロック1位に優遇されている阿部俊子(岡山3区で平沼赳夫に敗れ比例復活)、(小選挙区での出馬希望が通らず、コスタリカ方式でそれぞれ2・3位の)村田吉隆・河井克行を除けば、本来の意味での比例復活候補は中川のみ。 * 2009年10月 - 派閥政治からの脱却を宣言し、町村派を退会した。なお、町村派内で共同歩調を取っていた小池百合子も、総選挙後に町村派を退会した。 * 2012年4月、郵政民営化法改正案に反対。 * 2012年9月30日 - 次の衆議院選挙には立候補せず、議員を引退する意向を表明した。政治活動は継続する予定〔中川秀直氏が引退表明 衆院選不出馬、世代交代理由に - 中国新聞 2012年10月1日〕。 * 2012年11月12日 - 自民党県連で、後継候補に次男の俊直の擁立を正式に決定〔選挙:衆院選・広島4区 自民、中川俊直氏擁立へ 秀直氏の次男、県連「党員大会で承認」 /広島 - 毎日新聞 2012年11月13日〕。12月16日の第46回衆議院議員総選挙で広島4区にて初当選して衆議院議員になる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中川秀直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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